スバル360

前々回紹介した「ちいさいあかいじどうしゃ」の主人公、スバル360について調べてみた。その外観から「てんとう虫」の愛称で親しまれた富士重工業製スバル360の誕生は、約半世紀ほど前に遡る。1958年生まれの“ladybag”は、私の子供の頃はどこにでも走っていた国民的小型車であり、当時生まれた言葉「マイカー」の代名詞、60年代のモータリゼーションの牽引役であった。この車なくして、今や世界に冠たる日本の自動車産業の発展は語れない。

橘花
中島飛行機製「橘花」

その誕生には、戦前の航空機産業と元航空機技術者たちが大きく関わっている。富士重工業のルーツは、戦前の中島飛行機にある。「ゼロ戦」で有名な三菱重工業と並んで、「隼」や日本初の国産ジェット戦闘試作機「橘花」を生んだ、当時世界最大の航空機メーカだった。

戦後GHQによる航空機生産の禁止によって、中島飛行機は12社に解体される。12社は①東京富士産業、②富士工業、③富士自動車工業、④大宮富士工業、⑤宇都宮車両、⑥リズム、⑦富士機械、⑧輸送機工業、⑨マキタ沼津、⑩栃木富士産業、⑪イワフジ工業、⑫富士精密工業。①~⑤は後に合併して富士重工業に、⑥は富士精密工業→プリンス自動車工業から分離独立、⑫はプリンス自動車工業を経て、日産自動車へ吸収合併と変遷を辿る[1]。

百瀬晋六
百瀬晋六

さて戦前の航空機産業は時代背景もあり人材の宝庫であった。彼らが後の自動車産業を引っ張っていく。当時の技術者のエリート輩出校といえば、旧東京帝国大学(現東大)工学部航空機学科(たぶん今でもトップクラスの偏差値であろう)。その昭和17年卒業生に、スバル360開発の陣頭指揮を執る百瀬晋六がいた。

同期にはプリンス自動車工業の創立メンバー岡本和里、一年後輩には、ホンダの初代F1監督として世界的に知られる中村良夫。本田技研に職を得て、百瀬のスバル360の息を止める軽自動車の名車ホンダN360を開発。トヨタ自動車で、パブリカやクラウンを開発、近代的自動車造りの基礎を築いた長谷川龍雄は一年先輩。その一年先輩には発動機界では世界的巨匠の中川良一。中川はプリンス自動車の創業メンバーで、合併後の日産自動車副社長になった「技術の日産」の総帥[4]。戦後暫くして戦勝国アメリカにエンジンの理論を教えに行き、「米国製スパークプラグと高圧コードに換え、米国のガソリンとオイルで飛んだら、私のエンジンの高性能さに私も驚いた」という逸話も残す[7]。まあ、現在の自動車メーカのエンジニアたちにとっては、憧憬の的、雲の上の人たちである。

余談であるが、同じゴールを目指す優れた人材というのは、同時期に出現することが多い。まるで、そのゴールを待ちわびていたかのように、例えば春先に新緑が一斉に芽吹くがごとく。古くは微積学のニュートンと関孝和、ガソリン自動車発明のベンツとダイムラー、プロペラ飛行機発明者のライト兄弟や二宮忠八、テレビ発明者のベアード、ツヴォリキンと高柳健次郎、20世紀前半の現代物理学の開拓者、ボーア、アインシュタイン、ゾンマーフェルト、パウリ、ディラック、プランク、シュレディンガー、ハイゼンベルク、フェルミ、湯川秀樹等々の巨匠たち、芸術で言えば藤田嗣治、シャガール、ユトリロ、ピカソらエコール・ド・パリ=パリ派の画家たちもそうだ。上記の同時代の元航空技術者たちも自動車という新たなフィールドの中で開花し、後世に残る自動車エンジニアとなった。

さて、スバル360に話を戻そう。この車の開発の背景には、1955年(昭和30年)に通産省が打ち出した「国民車構想」がある。当時の世界の自動車情勢を調査の上、日本の国民車の条件をまとめたものだ。 その条件とは、最高速度100km/h以上、定員4名、燃費:平坦路で時速60km/h走行時に30km/L以上、月産3,000台以上で、工場原価15万円以下=販売価格25万円以下、排気量360cc~500cc程度。以上の条件を満たした会社を一社に絞り、国がこれを援助するという構想である[2][3]。

スバル1500
スバル1500

それ以前に富士産業の設計課長であった百瀬は、「スバル1500」と命名された1500ccの四輪自動車を開発試作していたが、資金的問題が解決されず没となっていた。そこに国民車構想、今でいう軽自動車の開発という上記の難しい課題に再チャレンジを挑む。百瀬は、「我慢せずに乗れる軽自動車」「大人4人が乗れる」をコンセプトに開発を始める。通産省の乗員4名の条件は大人2人、子供2人のイメージだったので、かなり高い目標値設定だった。

試行錯誤を経て生み出されたのが、車室内スペース確保のためのRR(リアエンジン、後輪駆動)、モノコック構造による強度と軽量化の両立、航空技術を応用した樹脂やアルミ車体による軽量化と乗り心地抜群のトーションバースプリング(※)によるサスペンション等いくつものの新技術を要したスバル360なのである。動力性能は、16馬力、360cc空冷2気筒ツーストロークエンジン[6]。

最終的に最高速度100km/h以上(83km/h)、販売価格25万円(42万5千円)という基準を満たせず、国民車構想には採用されなかった(国民車構想自体は構想の段階で消滅したのだが)。価格40万以上は、当時の大卒初任給1万3,000円からすると、高嶺の花であった[8][9]。しかし、その数年後、スバル360が中古車市場に出るや否や売り上げを伸ばし、本当の国民車となってしまった。そういえば「ちいさい…」でも、赤い自動車は中古車販売店で購入される設定だ。

キャロル360
キャロル360
フロンテ360
フロンテ360
ミニカ
ミニカ

その後12年間、スバル360はモデルチェンジを行わず、1970年(昭和45年)で生産を終了する。スバル360の成功により、他メーカも軽自動車市場に参入する。1960年(昭和35年)のマツダ・R360クーペ、1962年(昭和37年)のマツダ・キャロル360、スズライト・フロンテ360、三菱・ミニカ、1967年(昭和42年)のホンダ・N360、スズキ・フロンテ360等々。今や低価格・低燃費もあって、軽自動車の保有台数は2,476万台(07年統計、軽乗用車は1,528万台)で、全車両の32.6%(乗用車の26.6%)を占める[11]。また、車名別自動車販売ランキングでは上位1、2を軽自動車が占め、10位内に4台もランキング(2007年8月統計)される[12]のが現在の実態である。

スバル360は航空機技術(中島飛行機)が生んだ車と言われるが、百瀬自身はこの評価をあまり好ましく思っていなかったらしい。戦前の航空機を経験していたのは、課長クラス、それも走行試験や耐久試験を担当していたごく一部であって、実担当者のほとんどは戦後世代のエンジニアたちであったからだ[10]。しかし、その経緯を見れば分かるように、中島飛行機のDNAは戦後の自動車産業へ引き継がれていったのは間違いない。現在の自動車と航空機産業の成長度を比較すれば、航空機産業の解体は日本にとって結果オーライだったのであろう。

マン・マシンの昭和伝説

スバル360の開発物語は[2]~[9]にわかりやすくまとまっているし、[13]など百瀬に関するいくつかの書籍も出版されているので詳細はそちらを参照されるとよい。そのほとんどのベース資料となったものは、おそらく戦前の航空機産業から戦後の自動車産業への変遷をまとめた[10]であろう。前間孝則は、敗戦時に資料がほとんど焼却されていたため、当時の関係者一人一人を訪問取材してまとめたそうだ。この地道に足で稼ぐ手法はノンフィクションの基本であり、関係者の言葉に勝る事実はない。この1100ページにも及ぶ労作は非常によく体系化されており、資料としても一級品だ。尊敬に値する仕事である。

(※)トーションバースプリング
コイルスプリングに対するねじり棒ばねのこと。一端が固定されている一本の鉄棒を考えてみよう。もう一端を握って円柱の中心軸周りに捻る力を加えると、握った手には元に戻ろうとする力が生じる。この反発力を利用したものが、トーションバースプリングである。コイルスプリングより、同じ重量で保存できるエネルギーが大きいため、軽量にできるメリットがある。


[参考・引用]
[1]中島飛行機、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F
[2]【名(迷)車列伝】国民車構想と軽自動車 その1、車屋四六、2006年12月16日、
http://cars.hi-ho.ne.jp/news/index.html?itemid=1922
[3]【名(迷)車列伝】スバル360 その1:軽自動車を一人前のクルマとして認識させてくれたクルマ、車屋四六、2007年01月20日、
http://cars.hi-ho.ne.jp/news/index.html?itemid=2179
[4]【名(迷)車列伝】スバル360 その2:「良いものは必ず売れる」の信念、車屋四六、2007年01月27日、
http://cars.hi-ho.ne.jp/news/index.html?itemid=2224
[5]【名(迷)車列伝】スバル360 その3:20台しか生産されなかった幻のP-1、車屋四六、2007年02月03日、
http://cars.hi-ho.ne.jp/news/index.html?itemid=2276
[6]【名(迷)車列伝】スバル360(1958年) その4:ケイジュウ参上、車屋四六、2007年02月10日、
http://cars.hi-ho.ne.jp/news/index.html?itemid=2327
[7]【名(迷)車列伝】スバル360(1958年) その5:飛行機屋の巨匠本領発揮、車屋四六、2007年02月17日、
http://cars.hi-ho.ne.jp/news/index.html?itemid=2351
[8]【名(迷)車列伝】スバル360(1958年) その6:役人も絶賛のK-10、車屋四六、2007年02月24日、
http://cars.hi-ho.ne.jp/news/index.html?itemid=2387
[9]【名(迷)車列伝】スバル360(1958年) その7:テントウ虫誕生、車屋四六、2007年03月04日、
http://cars.hi-ho.ne.jp/news/index.html?itemid=2444
[10]航空機から自動車へ マン・マシンの昭和伝説、前間孝則、講談社
[11]社団法人全国軽自動車協会連合会ホームページ、軽三・四輪車および全自動車保有台数の年別車種別推移、
http://www.zenkeijikyo.or.jp/statistics/
[12]AutoBiz Japanホームページ、業界ニュース一覧、8月車名別新車販売台数ランキング、2007年9月6日、
http://www.autobizjapan.com/topics/2007/09/06181848.php
[13]スバル360を創った男 飛行機屋百瀬晋六の自動車開発物語、百瀬晋六刊行会/編、郁朋社
[14]スバル360、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%AB360

マン・マシンの昭和伝説〈上〉―航空機から自動車へ (講談社文庫)マン・マシンの昭和伝説〈上〉―航空機から自動車へ (講談社文庫)
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前間 孝則

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