DATSUN 240Z

運命のZ計画」続編の巻。主人公ダットサン240Z(日本名:日産・フェアレディZ S30型)は日産を代表するスポーツモデル“Z”のオリジンである。もう一方の雄、スカイラインも何だかピンとこないインフィニティという高級ブランド車になってしまったし、日産ブランドとして残っているGTRもまたスカイラインの名前を外した全く別物のスーパーカーになってしまった。スカイラインブランドももはや風前の灯状態。まあスカイラインのことは別の機会に取り上げるとして、今回は故・片山豊氏が魂を込めて世に出した240Zについて勉強したいと思う。

Z旗
Z旗

ところでZの名称はアルファベットの最後の文字であること掛けて、“究極”のスポーツカーという意味で名付けられたのだと思っていたが、「運命のZ計画」にも描かれているように、開発プロジェクトのコードネームⓏから来ている。日産では開発中のクルマは秘匿の関係で漢字やアルファベットを○で囲み、マルゼットのように略称(隠語)で呼ぶのが通例で、たまたまZが使われていなかったらしい[1]。しかし本書を読んで、船舶間のコミュニケーションに用いる国際信号機“Z旗”がこのクルマの誕生に深く関わっていることを知った。Z旗は海戦史においても特別な意味を持つ旗で、日露戦争の日本海海戦では、東郷司令官が戦艦三笠のマストに次の意味を込めて掲げた。

「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」(※1)

すなわち国の存亡がかかった戦いに最大限の努力で勝利せよという決意の証しがZ旗だった[2]。

(※1)連合艦隊の名参謀、秋山真之の草案とされる(「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」参照)

「運命のZ計画」の中では、片山が単身北米に赴任する時、空港に見送りに来ていた彼の兄から、餞別にこのZ旗を手渡される逸話が紹介されている。Z誕生の多難な経緯を知るとこのZ旗に込められた片山の強い思いも反映された車名だったようだ。ついでにトリビアな話を付け加えると、Z旗とクルマは結構関係があって、1966年にトヨタが日産サニーに対抗する新型エンジンの開発を急いでいた時、関連書類には全て朱色のZ旗が押印されていたそうだ。これは初代カローラの開発秘話だが、今考えるとこの作戦は相当効果があったと言える[2]。

話がかなり逸れてしまったので本題に戻る。片山がアメリカ日産社長に就任した頃、彼は本社宛てにアメリカ人の嗜好・使用状況に合ったスポーツカーの開発を求める要望書を提出した。曰く、『全天候型のクローズドボディ、長距離旅行にも使える広さのトランクルームを備えた室内、乗り心地に優れたサスペンションに高速走行に耐えるエンジンとブレーキ、そして何よりも誰もが美しいと感じるボディデザインのスポーツカーの開発を求む』と。日産はそれ以前にも「ダットさん」のモデル、ダットサン1500という2人乗りのソフトトップスポーツカーを販売していた(北米仕様はSPL310型)。その後も1600、2000と排気量アップの後継車がかなり売れた(「ダットサンとフェアレディS310系」参照)。しかし、北米市場での利用を考えると前述の基本コンセプトがスポーツカーに求められたのだ。これは片山が販売網を拡大する中で自らの足で稼いだ情報に基づく結論だった[3]。

この考えは技術的にも理にかなう。1965年に米国日産社長となった片山は、一時帰国をして上記の要望を社内に説いて回っている。その際、片山の理解者であった技術者が、ある意味「本当のZの父」とも言える当時第一設計部長の原禎一氏(以下敬称略)である。彼もオープンボディのスポーツカーには疑問を持っていた。ルーフのないオープンカーはボディ剛性が低く、シャシー構造の強化を図る必要がある。そうなると車重が増え、軽快な走りを実現することは難しくなる。安全性の面からも、衝突やロールオーバー(横転)に不利であることは明白である。スポーツカーが軽くて剛性のあるクローズドボディとなるのは技術的必然であった[4]。

松尾良彦
松尾良彦氏[5]

当時はその設計部の下部組織だった造形(デザイン)課に、片山が拘った「何よりも誰もが美しいと感じるボディデザイン」実現の鍵を握る一人のデザイナーがいた。「運命のZ計画」のもう一人の主人公、松尾良彦氏(以下敬称略)である。遡ること1960年、ちょうど片山が新天地、アメリカに赴任したその年に、松尾は日産に入社する。彼の経歴はちょっと変わっていて、子供の頃からクルマを描くのが大好きだった松尾少年は、親の薦めで一旦は大学の経済学部に入学するものの、カーデザイナーの夢を捨てきれず、アルバイトをしながら日本大学芸術学部へ再入学する。大学4年の夏休みに今で言うインターン生として日産で実習を受ける機会を得て、ダットサン310型のマイナーチェンジを提案し、ここで成績優秀と認められたようだ。当時の日産造形課は東京藝大か千葉大工業意匠出身者のみで、松尾は初の私大出身者という異色の新人だった[1]。しかしクルマ好き集団だと思って入社した会社が極めてビジネスライクだったことに彼は違和感を覚えた。この松尾の感性が片山と同様、彼を日産社内で浮いた存在にさせることとなる。イタリアのカー・デザイナーの巨匠、ピニン・ファリーナに委託していた次期型ブルーバード(410型)のデザインに、生意気にも「日本では売れない」とケチを付け、大ヒンシュクを買ったりもした。

こどもの国のダットサン「ベビー」
こどもの国のダットサン「ベビー」[6]

そんな問題社員に与えられた仕事は遊園地のゴーカートのデザイン。今からちょうど50年前の昭和40年(1965)に開園した横浜こどもの国の遊戯施設に使われるものだった。普通は腐るところだが、松尾は子供だましではない“本物”のゴーカート「ベビー」をデザインする。これが大好評を博した。この成功を認められて次に託されたのが、前述の410ブルのマイチェンデザイン。410は松尾の予想通り、尻下がりのデザインが不評と言われ、いわゆる「BC戦争」でライバルのコロナ(RT40型)に販売で大きく水をあけられていたのである。自分の言動への責任を持てとの抜擢だった。「バルンくんとともだち」にも書いたが個人的には垂れ尻の造形は嫌いではなく、時々まだきれいに乗られている410を公道で見かけてハッとする時がある。[7]によれば、これ以降尻下がりルックは日産経営陣のトラウマとなったのだそうだ。

ブルーバード410初期型(フロント) ブルーバード410初期型(サイド) ブルーバード410初期型(リア)
ピニン・ファリーナがデザインしたブルーバード410初期型[8][9]
ブルーバード410後期型(フロント) ブルーバード410後期型(サイド) ブルーバード410後期型(リア)
松尾良彦がマイチェンのデザインを担当したブルーバード410後期型[10]

松尾も又、片山と同じく世の中のスポーツカー・ニーズを感じ取っていた。彼はスポーツ色を強調するスポーツセダン(SS)の追加を提案し、彼が「野蛮」と称したグリルにも手を加えた。その後、ブルーバードの看板グレードとなったSSS(スーパー・スポーツ・セダン)が生まれ、尻下がりのリアボディ形状も大幅に変更された。これらの追加・変更によって売り上げも上向くが、最後まで410はRT40の後塵を拝したようである[7]。

240Zのクレイモデル案
240Zの1/1クレイモデル[4]:下段が最終案。上段のスペシャリティカーモデルや中段のオープンモデル案も検討された。

ブルーバードでの実績を買われ、松尾は編成されたばかりの第1造形課第4スタジオ(スポーツカー部門)のチーフに任命された。とは言ってもメンバーは彼を含めて3人。会社がスポーツカーに全く期待をしていない証左なのだが、逆に彼らは自由にアイデアを膨らませて行った。彼らの一押しは当初フルオープンモデル案だったが、試行錯誤の末、240Zの原型である2シーター・クローズドボディのロングノーズ、ショートデッキ案に行き着いた。1966年に松尾はこうした経緯を後に発売される2+2(4人乗り)の可能性も含めて『次期スポーツ車基本的考え方』という報告書にまとめたが、これが北米にいる片山の目にも止まったらしい。クルマに対する感性を同じくするこの2人が初めて出会ったのが‘66年の秋。最終案のクレイモデルを見た片山は一目で気に入り、前述のZ旗を掲げて推進すべしと伝えた。後日、片山は米国からZ旗の小さなレプリカを松尾らに送った。この時松尾は、まだ役員承認の得られていないこのスポーツカープロジェクトが商品化されることを確信したのだと言う[1]。

クルマ開発はトレードオフの闘い
クルマ開発はトレードオフとの闘い(「運命のZ計画」より)

しかし動き始めた開発プロジェクトは多難を極めた。まず車高の問題。造形モデルの1,200mmでは天井が低すぎて身長188cmの人が楽に乗降できない。かといってフロア高を下げれば前方視界が悪くなる。担当する第三車両設計課の植村齊氏(以下敬称略)は下方視界5度に拘り、全高1,300mmを要求した。しかしそれではデザインのバランスが崩れてしまう。デザイン要件と機能要件のトレードオフは非常に難しい問題であり、現在の自動車メーカーでも「何とかするのがお前らの仕事だ」と日々この闘いが繰り広げられていると思う。Ⓩの魅力を理解していた植村は一旦1,280mmで妥協したが松尾はそれでも拒否をする。二人の関係は最悪な雰囲気になったという。数ヶ月後、植村はある資料を松尾の所に持って来た。アメリカ空軍15,000人分の身長データだった。ここから平均を算出すると全高1,260mmでアメリカ人の97%をカバーするコックピットの設計が可能だと説得した。最後はそのデザインが人間(使い手)の立場に立ったものかどうかで判断されるべきだ。“設計美学”の本質である。人体寸法データが語る真実は重く、全高1,260mmで決着が付いた。ところで240Zのカタログ値を見ると全高1,285mmとなっているのだが、この1,260mmという寸法は積載時全高とのこと[1]。

レイアウト上の問題はこれだけではなかった。前出の植村が所属する第三車両設計課はパトカーやバキューム車といった少量生産の特殊車両を設計する部署で、実力は一級だが人もコストも抑えられていた。植村らはⓏの生産コストを下げるために主要コンポーネントは既存車種から流用することにした。ブレーキはスカイライン、サスペンションはローレル、エンジンはスポーツカーに相応しい性能を出すためにブルーバード用の直列4気筒を6気筒化(※2)して搭載することになった。私はずっと日本を代表するスポーツカー、240Zは専用設計だと思っていたのだが、ある意味寄せ集めのなんちゃってスポーツカーだった訳である。問題はこの直6のエンジンヘッドが低くスラントしたボンネットに干渉してしまうことだった。松尾は直4エンジンを前提にデザインしていたからだ[1]。しかしこの問題は、ボンネット中央部に30mm膨らみを加えることで解決した。

(※2)初代S30型フェアレディZには3種類のエンジンが設定されている。国内向けS30型には2ℓ直列6気筒、シングルカム(SOHC)L20型エンジンを搭載、最高出力は130PS(96kW)。レースやラリー向けSP30型には、スカイラインGT-R(箱スカ)にも載せられた高性能の2ℓ直列6気筒、DOHC(ツインカム)S20型エンジンを搭載(このエンジンを搭載したZはZ432と呼ばれる)、最高出力は160PS(118kW)。そして北米向け240Z(HLS30型、英国向け右ハンドルはHS30型)に搭載されたのはL20型エンジンのボア・ストロークを拡大した2.4ℓ直列6気筒のL24型エンジンであり、最高出力は150PS(110kW)[1][11]。

特徴的なヘッドライトナセル
特徴的なヘッドライトナセル

生産上の問題も発生した。240Zと言えばあの特徴的なヘッドライトである。ライトを覆う曲面部分の絞り形状がきつすぎて、プレスでは割れてしまう。鋳型だと重くなりすぎ、プラスティックでは強度が足りなくなる。製造を担当した日産車体の宮手敬雄氏(以下敬称略)は頭を悩ませた。ある時、宮手が駅のベンチに腰掛けていた時に閃いた。駅のベンチに使われているFRPであれば、軽くて丈夫で安くて色のりも良く最適な素材だった。[1]によれば松尾は初めからFRPで仕上げる前提でデザインをし、設計にもその事を伝えていたそうだが、何故か日産車体には伝わっていなかったのである。しかし、結果的に同じソリューションに辿り着いた。

240Zの商品化が決定した常務会
240Zの運命を決めたプレゼン(「運命のZ計画」より)

これだけプロトタイプの試作が進んでもなお、この新型スポーツカーの提案が常務会(最高経営会議)で行われていなかったので、これ以上プロジェクトを進めることはできなかった。1967年の11月、片山も出席した常務会でプレゼンが行われた。当時の川又社長は日頃から、「スポーツカーは道楽仕事である」と公言していたそうで、どうすればⓏが認知されるか原設計部長は策を練った。まずエンジンの選択だが、当時合併したばかりのプリンス自動車にはS20型というとんでもない2ℓエンジンが存在した(※2)。これはプリンスが作ったレーシングカーR380が2000ccクラスで世界一のスピード記録を打ち立てたエンジンだった。このユニットがスカイラインGT-Rに搭載される計画だったが、こんな高性能エンジンは普通のセダンよりもスポーツカーに最初に搭載されるべきだと川又社長は考えていた。本家の“ニッサン”にはフェアレディがある。しかし小型のフェアレディSRにその6気筒エンジンを収めるには無理がある。そこで原は一計を案じる。S20型エンジンを組み込んだ2つのモデルを用意したのである。一方は旧来のフェアレディの全長を伸ばして無理矢理にエンジンレイアウトをしたもの、その隣に幌を被せた全く新しいスポーツカーⓏを準備した。バランスの悪い不格好な第一モデルを先に見せておいて、後からⓏの精悍で高級スポーツカー風の印象を引き立て、高性能エンジンはこの新型スポーツカーこそ相応しいと思わせる演出。原の思惑どおりⓏの生産は常務会で承認された[4]。それにしても「運命のZ計画」で描かれたまんまと原の術中にはまる川又社長のマヌケ顔に作者たちの悪意を感じるのは私だけであろうか。

振動問題
振動問題はガソリンタンクの容量を減らし、デフをの位置をリアアクスル(赤線)上に戻すことで解決(「運命のZ計画」より)

しかしその後も試練は続く。最後の詰めでアメリカでの公道試験をしていた時のこと。時速80マイル付近で異常振動が発生していた。原因は皮肉にもZのコンセプトとデザインによるものであった。実用性の高いスポーツカーを目指したために広いトランクルームと長距離移動のための大容量ガソリンタンクの両立は不可欠だった。ガソリンタンクは通常トランクルームの下方にレイアウトするが、Zの命ともいえるショートデッキスタイルを活かすために、ガスタンを避けてデフ(デファレンシャルギア)の位置をリアアクスル(後輪車軸)よりやや前方に配置した。そのため特定の回転域でドライブシャフトが共振を起こしていたのだ。最終的にはガスタンの容量を小さくし、車体の軽量化をさらに徹底することで燃費を稼いだ。このことでデフをリアアクスルの正常位置に戻すことが出来た。こうして1969年10月にフェアレディZが国内発売された翌年、240Zはアメリカでのデビューを果たした(資料によっては北米発売開始が3月だったり4月だったりしてよくわからない)[1]。もちろんブランド名は“ダッツン(DATSUN)”で。

240Zの広告
240Zの広告:片山自らキャッチコピーを考えたという

ジャガーが1万ドル、ポルシェが6,000ドルもした中で、Zの販売価格は3,526ドル。Z-carはアメリカ市場で大ヒットし、月産は最大で7,000台にも達した。オプションを付けて1万ドルで売っても売れた[1]。初代Zは北米市場を中心に世界総販売台数55万台(うち日本国内販売8万台)という世界一売れたスポーツカーとなった。徳大寺氏曰く、フェアレディZは世界中のスポーツカーを滅ぼした。MGもトライアンフもオースチン・ヒーレーも全て敗れ去り、辛うじて生き残ったのがポルシェとアルファ・ロメオ。ポルシェは生き残るために大排気量化を強いられることになる。マニアックなモーガンやロータス、価格帯の全く異なるフェラーリこそダメージを受けなかったが、Z以後のスポーツカーは、大なり小なりコンセプトに影響を受けることになったと言う[7]。そのコンセプトこそ、片山が最初に掲げた普通のクルマと同様、実用性=快適システムを備えたスポーツカーだった。

以上のような企画、デザイン、設計、生産上の開発苦労話はどのクルマにもあるよと自動車メーカーや部品メーカーの人たちは言うだろう。勿論、その通りだと思う。240Zのように大成功を収めればその苦労も物語になるが、ヒット商品なんて限られている訳だし、多くのクルマ開発ではプロジェクトXのように関係者がスポットライトを浴びることは稀である。そんな物語の主役となった少数の一人である松尾は、Zの北米デビュー3年後に日産を去りフリーとなる。片山と同様、日産の黒歴史の犠牲になったのかどうかは定かではない。

Z32 vs Z33
Z32型(左)とZ33型(右)[12]:こうしてみるとZ33も結構デカい

僕は左ハンドルの240Zは勿論のこと、初代フェアレディZにも乗ったことがない。ただ、発売された子供の頃は、大好きなジャガーEタイプにも似たそのスタイリング(徳大寺氏はフェラーリ275GTBがベースにあると見ているが[7])をカッコいいと思って眺めていた記憶はある。大人になって初めて運転したZは1989年に登場する4代目Z32型だった。とにかくでかい、重いクルマでZに抱いていたイメージにはほど遠い鈍重なフィーリングだったことを覚えている。やはりと言うか、このクルマでZの歴史は一旦幕を下ろすことになる。ゴーン体制になり、片山の名誉回復とともに復活したZ33型以降のZ-carは初代のコンセプトを取り戻したようにも見えるが、Zに限らずやはり世のスポーツカーは大きくなり過ぎたと思う。最近、新型のダイハツ・コペンやマツダ・ロードスターなどの小型オープン・スポーツが注目されている。歴史は繰り返すと言うが、片山らがスポーツカーの常識を覆した240Z以前にまた、世の中の(クルマ好きの)ニーズは回帰を求めているのかもしれない。何もかもが快適・便利で進化してきたクルマのアンチテーゼとして。奇しくも片山さんの死がその象徴のようにも思えるのである。

[参考・引用]
[1]Zをつくった男、黒井尚志、双葉社、2002
[2]Z旗 皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ、
http://www.z-flag.jp/main/information.html
[3]Zカー、片山豊・財部誠一、光文社新書、2001
[4]DATSUN510と240Z、桂木洋二、グランプリ出版、1994
[5]松尾良彦、日本自動車研究者ジャーナリスト会議、
http://www.npo-rjc.jp/member/detail.php?id=rjc089
[6]子どもが「本物のクルマ」を、再び運転する日――ダットサン「ベビー」が映し出す日本特有の自動車社会の姿とは―超小型モビリティの可能性を探る旅⑮、桃田健史、DIAMOND online、2014年5月19日、
http://diamond.jp/articles/-/53131
[7]ぼくの日本自動車史、徳大寺有恒、草思社、1993
[8]NISSAN Bluebird Vol.2 [Nissan]、郷愁の自動車・カタログギャラリー、2011年6月18日、
http://hide-g.blog.so-net.ne.jp/2011-06-18
[9]★1964年ダットサン ブルーバード2代目410醜いアヒルの子~自動車カタログ棚から199、ポルシェ356Aカレラ、2013年12月23日、
http://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11733529953.html
[10]★1966年ダットサン ブルーバード 2代目最終型 200回目!~自動車カタログ棚から200、ポルシェ356Aカレラ、2013年12月29日、
http://ameblo.jp/porsche356a911s/entry-11737828712.html
[11]日産・フェアレディZ、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%94%A3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3Z
[12]There's Z cars、
http://tere.net/t-z/index.htm
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