ジュニア版 まんが プロジェクトX 挑戦者たち⑪運命のZ計画

バルンくんとともだち」に登場したポルシェ356について調べようといろいろ資料集めをしていたのだが、急遽別のクルマと人物についての勉強を始めることにした。日産フェアレディZ(ダットサン240Z)の生みの親、元アメリカ日産社長・片山豊さん(以下敬称略)の訃報が先月22日に飛び込んで来たからだ。享年105歳。大往生といえばそうだろうが、高倉健さん以上に不老不死の人だと思っていたので非常に残念である。昨年末の徳大寺有恒さんに続きまた一人、昭和の自動車文化を支えた巨星が消えてゆく。今回は「ジュニア版 まんが プロジェクトX 挑戦者たち⑪運命のZ計画」(原作・監修:NHKプロジェクトX製作班、作画・脚本:横山あきら、宙出版)の紹介を通して片山豊とZ誕生の秘話を勉強し、彼への追悼としたい。

片山豊
片山豊[1]

世界一速い車をつくった男 本田宗一郎」でも紹介したが、片山は1909年、本田宗一郎の生誕地からほど近い静岡県周智郡気多村(現浜松市天竜区春野町)で生まれる。ベニー・グッドマンと同い年というから驚く[1]。後述するが旧制湘南中学(現・湘南高校)から慶応ボーイという洒落た経歴は官僚主義蔓延する日産の基本体質とは水と油で、その後随分会社との対立があったのは有名な話。日産に入社したのは、日産が設立された翌年の1935年(と本書では書かれているが、日産の設立は正確にいうと創業者鮎川義介が横浜に自動車製造㈱を立ち上げた‘33年12月26日が公式の設立日であり、現在の日産自動車㈱に改称したのが翌’34年のこと/「ヘリテージ・カー・パレード in Yokohama」参照)。鮎川は片山の親戚筋に当たるらしいので[2]、縁故入社ということか。まあ昔の会社員なんてこんなものだ。その‘35年にダットサン第一号が日産の工場から出荷されるのをなんと彼は実際に見ているのだという。まさに片山は日産の社史そのものだった訳である[3]。しかしこの日産の生き証人は後年、その社史からも抹殺される。このことについては後述する。

戦前は国内の宣伝部署を経て満州に赴任。戦後は日本に戻って再び宣伝を担当[2]。本書はその宣伝担当に戻った片山38歳から物語が始まる。この頃から既に彼はパブリック・リレーション、すなわち企業理念を世の中に広く知らせる重要性を理解していた。しかし当時は企業の広報活動という言葉もなく広報と宣伝の区別もない。宣伝といえば業界紙記者の接待係くらいの認識であった。しかし社内での認知度の低さをよそに、同じく広報の重要性を認める他メーカーの宣伝担当に声をかけ親睦会を開催していた。彼が中心となったその活動成果が東京モーターショーの前身、全日本自動車ショーの初開催(1954)である。東京MSのシンボルマークを考案したのも片山なのだそうだ(「迷いの見られる東京モーターショー」参照)。今年のモーターショーは恐らく、片山の功績を称える企画が持たれるに違いない。

運命のZ計画 その1
片山は日産の広報企画に多くの成果を出すのだが…(「運命のZ計画」より)

彼は乗用車が普及すればメーカーのイメージリーダーとなるクルマが必要になる、そしてスポーツカーこそがそのクルマの魅力を一番わかりやすく訴求できるカテゴリーだと考えていた。前述の第一回自動車ショーでもコンセプトカーの先駆けである「ダットサンスポーツDC3」と名付けられた特別仕様車を展示したり、初出場にしてクラス優勝を成し遂げた『富士号』で有名なダットサン210のオーストラリアラリーへの参戦を企てたのも彼だった。今ならば会社のブランド価値を高める値千金の成果を立て続けに出すなど彼の業績は大いに評価されて当然だと思うのだが、何せ戦後間もない、しかも官僚体質の強い保守的な組織の中では彼の行動力は異端視され、若い頃から組合に反発していたので当時労働組合の発言権の強かった社内で浮いた存在となった。

川又克二 塩路一郎
(左)川又克二[5](右)塩路一郎[6]

今でこそ片山は日産(正確にはダットサン)ブランドを語る上で欠かせない一人だが、彼を知るには日産の黒歴史を紐解かねばばらない。これは日産関係者のジレンマであろう。日産の歪んだ歴史を生んだ最大の“功労者”は2人の社長と2人の労働組合幹部と言われている[4]。1950年代、「日産百日闘争」と呼ばれた労働争議を首謀した益田哲夫、益田の指導する組合の反対勢力として拡大していった第2組合の後のリーダー・塩路一郎、その第2組合を陰で支援する経営側の一人、後に日産中興の祖とも言われた川又克二、そして後述する石原俊。敵の敵は味方、大国外交のような日産労使の戦後40年以上にわたる魑魅魍魎の世界については、有名な『覇者の驕り』(デイビッド・ハルバースタム著)や[7]に詳しいが、それはまるでロシア革命、すなわち労働者革命の矛盾や恐怖を描いたアメリカ映画「ドクトル・ジバコ」を見るような異常さだ。道理のいかないことには相手が誰であろうと反発する片山にとって、会社だろうが組合だろうが気に入らないものは気に入らない。

運命のZ計画 その2
片山の後半の人生を決めた辞令(「運命のZ計画」より)

この頃、彼の人生を決定づける米国ロサンゼルス赴任の辞令が出る。片山この時50歳。まさに五十にして天命を知ることになるのだが、社命は「西部地域の市場調査」。労働組合と距離を置かせるための上司の計らいという説[7]もあるが、事実上の左遷であった。彼が北米に赴任した1960年、日産車の全米販売台数はトラックも含めて1600台。もちろんDATSUNブランドで。ちなみに2014年通年の日産車新車販売台数は139万台弱[8]、3桁違う。当時の販売は東を三菱商事、西を丸紅と総合商社に委託していて、販売網構築のために主にニューヨークを拠点に日産本社直轄の事務所は置かれていたが、現地法人もまだない状態だった。委託業務で拡販のモチベーションも上がるハズもない。しかも品質クレームは多く、アメリカでの日本車の評価は「二流車」だったことに片山は愕然とする。

ユーザーの信頼を得るためにはサービスの向上、それには他人任せではダメだと考えた片山は、着任から3ヶ月後、販売には手を出すなという社命に反し、現地法人の設立を本社に申請した。本社をどうやって説得したのかはわからぬが、その3ヶ月後にはロスに「アメリカ日産自動車」を設立してしまう。輸出面からも西海岸は東京からのアクセスが良い。カリフォルニアが最もクルマが売れ、在庫車を保管する場所にも広大な敷地が必要になると合理的に考えた結果である。発起人は片山以下、セールスとサービス・エンジニアのたった3名。ニューヨークを販売の拠点に目論んでいた本社はお冠だったが、片山らの不断の努力によってDATSUNブランドは「丈夫でサービスの行き届いた車」として徐々に信頼を獲得し、西海岸では次第に売り上げを伸ばしていった。片山の話によれば、日産はルノーに2度助けられているという。販路拡大の最大功労者だったのは、ルノーからやって来たアメリカ人社員第1号だったのだそうだ[3]。

片山豊氏 100歳お誕生日記念トミカ ダットサン510
510も片山豊と切り離せないモデル(片山豊氏 100歳お誕生日記念トミカ ダットサン510)

当初アメリカ日産の社長には、本社で輸出部長をしていた前述の石原俊(後の日産社長・会長)が就任した。元々本社は東海岸を重要拠点に考えていたため、石原子飼いの人間が筆頭副社長として東海岸を、西海岸は片山が第2副社長として実質的な経営責任を負った。しかし一向に業績の上がらない東海岸に対して、売上を拡大していった西海岸担当の片山が1965年の東西地区統合の際にアメリカ日産の社長に就任したのである。真相はわからないが、恐らくこの人事が後の片山と240Zの不遇な歴史の大きな要因になったと推測される。とりあえずこの時点では、先見の明と行動力のある片山が、夢の実現のための裁量権を握ったということだ。片山豊はZカーであまりにも有名だが、Z成功の前に史上初めて北米市場でヒットした日本車であるダットサン510(日本名ブルーバード)の企画にも貢献をしていたことは意外に知られていない。要するに彼は北米市場における日産車のみならず、現代に繋がる本格的な日本車海外進出のパイオニアだった訳である。

アメリカのディーラースタッフとダットサン240Z
アメリカのディーラースタッフとダットサン240Z[1]

240Zという夢の実現のためには本書のもう一人の主人公、日産の若きデザイナー、松尾良彦の力が必要になる。この辺の事情については次回240Zのお勉強の中で紹介したいと思う。とにかく日本に遅れること4ヶ月、1970年3月に全米デビューを果たしたダットサン240Zは売れに売れた。月販最大7,000台、この初代S30型Zは9年間で累計54万台というスポーツカーとしては異例の大ヒット車となった。しかしアメリカでは親しみを込めて「ミスターK」と呼ばれ、日本人では数少ない全米自動車殿堂入りを果たした日産・ダットサンブランドの象徴である「Zカーの父」が長い間、日産社内ではタブーとされてきた。本書ではこのことは語られていない。元ネタとなるNHKの番組「プロジェクトX」でどのような取り上げ方をしたのかは観ていないのでわからないが、児童書ゆえに大人の汚い世界が伏せられるのは仕方がない。聞かされたところで子供にはつまらないだろう。しかし1996年のZ32型を最後にZの対米輸出は停止されたこと(’00~‘02年は生産そのものが中止)、その後の日産の業績悪化に伴い’99年にルノー傘下となって、カルロス・ゴーンという辣腕経営者に再建を託されたこと、そしてゴーン体制下での‘02年にZ33型としてZカーが復活したことは描かれている。

石原俊
石原俊[5]

この日産の事実上の経営破綻は、長年にわたる労組との対立による経営の硬直化もそうであるが、実はこの片山豊の封印が原因、しかもそれは経営者の個人的感情によるものではないかと言う話がある。片山が日本に帰国したのは1977年。これだけ会社に貢献したにも関わらず、役員にもなれぬまま当時日産の広告を担当していた日放会長に転任する[2]。実際は彼のために作られた閑職だった[7]。帰国当時の社長は石原俊。前述したアメリカ日産設立時の社長だった人だ。経営を牛耳っていた日産労組の天皇・塩路一郎との「石原・塩路戦争」は有名な話で、石原は片山が帰国した’77年から日産社長職に就き、塩路委員長を駆逐した後も‘85年まで経営トップに君臨した。退任後は会長や経済同友会代表幹事としても活躍された財界の大物である[9]。

米国市場の拡大事業では、ニューヨークに本拠をおく石原直系の正規部隊を、ロスを拠点とする片山率いるゲリラ部隊が圧倒したことによりアメリカ日産の社長の座を子飼いの部下でなく片山に譲らざるを得なかったことは苦々しく思っていたに違いない。また片山帰国当時の会長は川又。その背後には塩路が控える。組合を好ましく思っていなかった片山にとって、日産の経営を握る3人の前では多勢に無勢。片山が日産を退職した後も、日産社員は彼と話をしてはいけないという雰囲気があったのだそうだ[3][7]。新車発表会では彼と一緒にいるだけで組合か上司に告げ口をされたという[3]。

日産自動車50年史1
社史『日産自動車50年史』における240Zの扱い(1):赤い囲み部分と上の小さな白黒写真が240Zの言及部分。確かに下のラリー車の写真はZだが、ラリーで優秀な成績を収めたクルマの一つとしか扱われていないし、キャプションすらない。[10]

「日産が片山とZを抹殺した」という世間の噂、少なくとも日産社史での封印については[7]では否定的に書かれている。確かに役員でもない一社員が社史に掲載されないことは不自然ではないが、[3]でも取り上げられているように、私が古書で手に入れていた’83年出版の『21世紀の道-日産自動車50年史』(日産自動車㈱・編、[3]では『30年史』と記載されているが間違いだと思う)におけるZカーの扱いを見ると明らかに違和感を覚える。米国市場におけるZカーの栄光はわずか数行記載されるのみ。240Zの写真においては、新車発表会の際にキャンペーンガール2人が布のカバーを剥がそうとしている小さな白黒写真だけだ。あのカリフォルニアの空の下に映える黄色の240Zのカラー写真なんていくらでもあったろうに。さらに驚いたのは、嘘か真か日産史いや世界の自動車史に燦然と輝く240Zの産業遺産としての価値もあると思われる金型すらも廃棄処分してしまったという話等々[3]。当時の関係者はほとんどいなくなっているので、今となっては証言を取ることも難しいと思うが、片山が社内でタブーとなっていたことは[3][7]も含め周知の事実とされている訳だし、私は噂以上のものだったのだろうと思う。石原や塩路が直接指示をしたかどうかはわからないが、両陣営の太鼓持ち達が気を回して部下にやらせたということは十分に考えられる。

日産自動車50年史2 日産自動車50年史3
社史『日産自動車50年史』における240Zの扱い(2):北米市場の項目ではあからさまである。北米市場拡販に貢献した510も240Zもまるで意図的であるかのようにカットされている。紹介記事も赤い囲み部分のみ。[10]

しかしそれ以上に経営に私情を持ち込んだのではないかと思われる愚挙を石原は断行する。当時石原社長は「グローバル10」という経営戦略を掲げ、深刻になっていた貿易摩擦への対応策として、欧米での現地生産や資本参加を進めた。塩路はこの急激な海外進出計画に反対していた訳だが、その中で’83年、グローバルなブランド名をNISSANに統一し、米国のみならず海外でも浸透していた日産の魂ともいえるDATSUNブランドを消し去ったのである[9]。現地化を進めるのであれば、その土地に根付いたブランドは捨てるどころかさらに育てるのが常套手段だと思うけれど、彼は経営方針とは真逆のブランド戦略を掲げたのである。20世紀の経営者偉人伝にも紹介されるほど[5]の石原が、今では大学の経営学の授業でブランド戦略の失敗例として教材にも使われるほどあり得ない経営判断をした。これは彼の個人的な感情によるものではないかと疑うのは当然である。このことについて片山は[3]で次のように語っている。「はっきりとは言えないけれど、おかしな話だが、多分、ダットサンがあまり景気よく売れたのがシャクに触ったのかも知れません。ダットサンのブランドを抹殺してしまうというのは、よくよくのことです。」

日産の国内販売がトヨタに水をあけられる中(「じどうしゃ~昭和は遠くになりにけり」参照)、バブル期に業績は少し上向くものの、その後は下降線を辿り、前述のルノーの資本注入という結果となる。経営不振に陥った理由は組合の問題だけでなくコスト意識の低さなどいろいろあったと思うが、石原が強行した「グローバル10」での投資が経営を圧迫したこと、とりわけ北米市場での販売低迷はDATSUNブランド廃止の影響が大きかったと思う。ゴーン体制後、片山が名誉を回復した裏で、今度は石原が日産の負の象徴として社長史から消されたのだそうだから日産ってホントに奇妙な会社だ[3]。少なくとも悪玉の一人を退治した功労はあったと思うけどね。

話が長くなってしまうが、ここで少し話を脱線させる。先日「朝日新聞を糺す国民会議」の代表2人が従軍慰安婦問題に関する一連の朝日新聞の報道について、「日本国及び日本国民の国際的評価を著しく低下させた」と東京地裁に朝日新聞に対する集団訴訟を提起した。そのことに対する会見を外国記者クラブで行った記事[11]を読んだ。私も朝日のいたずらに自国を蔑む報道姿勢には共感を覚えないが、“日本国の誇りを取り戻す”という「朝日新聞を糺す国民会議」の主張を読んでもまるで前述の「石原・塩路戦争」や連日のように報道される大塚家具のお家騒動を見ているようだ。また両者が歴史を自分たちに都合よく解釈する姿勢も、日産史の封印とダブってみえる。結局、この集団訴訟は日本の国際的評価をさらに悪化させるだけのような気がする。朝日も国民会議も「我こそは正義なり」という傲慢な態度そのものであり、ごく普通の日本国民、市民不在の不毛な論理にしか思えない。彼らが彼らの正義を振り翳さずとも、市民レベルではこれまでも多くの日本人が誇りを持って“謙虚に”諸外国と付き合ってきたと思う。そうして日本人の、あるいは日本企業の国際的評価を高めてきた。その顕著な例が片山のような人物だ。

運命のZ計画 その3
全米Zカークラブのイベントに招待され大歓迎を受けるMr.K(「運命のZ計画」より)

1995年5月、240Zの全米発売から25年目、全米Zカークラブ(ZCCA)のメンバーが2ヶ月以上をかけて各々自慢のZカーで全米を巡るという「Zカーリレー」が行われた。そうして7月にZCCAのメンバーがアトランタに大集結してZ生誕25周年を祝う大パーティーが催された。そこには彼らが尊敬の意を込めて「ミスターK」と呼ぶ片山が招待され、熱烈な歓迎を受けたという。彼がアメリカに渡った当初は言われもない差別や誹謗中傷を受けたに違いない。しかし、当時の日本車(あるいは日本人)の評価を真摯に受け止めた。彼は信念を貫く“ぶれない”男だったが、自分の価値観を他人に押し付けることはしなかった。ビジネスの当たり前の基本、消費者が求める価値を徹底的に追及することで多くの人々の共感を得た。結果的に日本人の誇り=ブランドを回復させることができたのである。そんな彼が石原や塩路を長年培ってきたブランドを潰す馬鹿な奴と思っていた(と私は思う)のと同様に、我々も朝日や国民会議に対して同じように冷めた目で見ていることに気付かないのかなあ。

日本人どおしがギスギスとした関係になってきた今だからこそ、その経験からブランドの重さ、怖さを最も熟知している日本人の一人である片山豊を失ったことは、日本にとって大きな損失だと強く感じる。片山の1世紀に及ぶ歴史から学ぶことは多い。今回はちょっと重ーい話になってしまったので、次回は片山豊追悼第2弾、本書の紹介も交えながらかっこいい240Zについて楽しく勉強してみたい。

多くの人から愛された片山豊
多くの人から愛された片山豊[12]

[参考・引用]
[1]LEGEND 02_ぶれない男 片山豊、LEGENDS、日産自動車ホームページ、
http://www.nissan-global.com/JP/HERITAGE/LEGENDS/LEGEND_02/index.html
[2]片山豊、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B1%B1%E8%B1%8A
[3]Zカー、片山豊、財部誠一、光文社新書、2001
[4]日産経営危機の“元凶”元労組リーダー死去「社内にスパイがいて悪口はタブー」、Business Journal、2013年2月19日、
http://biz-journal.jp/2013/02/post_1530.html
[5]本誌秘蔵フィルムで綴る20世紀の偉人伝、経済界オンライン、
http://www.keizaikai.jp/pages/official/greatperson-list.php
[6]塩路一郎氏が死去 元自動車総連会長、西日本新聞経済電子版、2013年2月7日、
http://qbiz.jp/article/12207/1/
[7]Zをつくった男、黒井尚志、双葉社、2002
[8]自動車販売台数速報 米国 2014年、MARKLINES、2015年1月6日、
http://www.marklines.com/ja/statistics/flash_sales/salesfig_usa_2014
[9]石原俊、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E4%BF%8A
[10]21世紀の道-日産自動車50年史、日産自動車㈱調査部・編、1983
[11]【詳報】”日本国の誇りを取り戻す“〜「朝日新聞を糺す国民会議」の水島総氏・加瀬英明氏が会見、BLOGOS編集部、BLOGOS、2015年2月23日、
http://blogos.com/article/106283/
[12]In Memoriam: The Life & Times of Nissan Legend Yutaka Katayama、nissan-global.com、2015年2月22日、
http://blog.nissan-global.com/EN/?p=12858
[13]「ミスターK」こと片山豊さんの訃報、国沢光宏、2015年2月22日、
http://bylines.news.yahoo.co.jp/kunisawamitsuhiro/20150222-00043250/
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コメント

  1. 松岡信男 | -

    就職して真っ先に手に入れたのが“S30Z”でした。
    ラリーでは箱型のクルマが多いなか、
    ボンネットをつや消しの黒に塗り、
    スポットライトを取り付け泥だらけになってグラベルを疾走する姿が格好良く、
    運転免許取得前からこれだけは決めてました。
    「就職したらZ買うんや」
    2シーターだったので5年乗り泣く泣く手放しました。
    【仕事で飛騨高山から課長をトランクに乗せ3人で名古屋まで帰ってきたことがあります。もう時効ですよね?】
    そんな大好きだったZにそんな重い話があったんですね。

    ( 10:56 )

  2. papayoyo | -

    Re: Z

    僕らの世代(運転免許を持ち始めた頃での)のZといえば、S30ではなくZ31や32、いわゆるZ末期ですね。もちろん、子供心にS30はカッコよかった。
    Z32の左ハンも運転しましたが、V6 3LのVGエンジンをしてもその車重はネックで、なんともスポーツとは縁遠い鈍重な印象しか残っていません。あまりにも幅広になったそのスタイリングもあまり好きではありませんでした。このZ32でZの流れが一旦途絶えたのも必然だったのでしょう。
    当時の日産スポーツといえばスカイラインR32とかシルビアS13ですかね。Z32に比べれば、そのドライビングフィールは圧倒的に”スポーツ”でしたね。特にS13は衝撃的で、その流麗なデザインとコンパクトスポーツという意味では、むしろこちらがS30の後継と思えました。

    ( 23:26 )

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