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楽しいクルマ絵本の世界/エンスーのためのクルマ絵本ライブラリー

1995年  

神戸の今

1994年のクリスマスイヴ。私は当時付き合っていた今の嫁さんと神戸の三宮で食事をしていた。まさかこの静かな美しい街並みが約3週間後に変わり果てた姿になろうとは誰が想像できただろうか。20年前の1月17日のことは私も、そして妻も決して忘れることはできない。その日、二人とも淡路島にいたのだから。

当時私と妻は同じ社団法人に其々の出身企業から出向をしていた。1月17日はその法人の設立記念日で、新年会も兼ねて職員一同、淡路島へ慰安旅行に出かけることになっていた。私はその旅行の代表幹事を仰せつかり、前日の16日に淡路島へ入り、17日は島内を観光する予定だった。16日の晩はもちろん楽しい大宴会となり、酒好きの多かった同僚たちは皆べろべろになって深夜床についた。

ぐっすり眠っていたはずの私はハッと目を覚ました。床の下からゴゴゴーっという地鳴りの音が徐々に近づいてきて、何だ?と思った次の瞬間、突き上げるような縦揺れに見舞われた。妻も全く同じ体験をしており、恐らく最初に到達する地震波(P波)にセンサが反応して目が覚めたのだろう。揺れ始めるともう起き上がることなど出来ず、とにかく枕を顔に被せて頭を守ることだけを考えた。30秒ほど強い揺れが続いただろうか。その間は生きた心地がしなかった。揺れが収まってすぐに考えたことは津波の心配である。宿は鳴門海峡が近くにあったので島南部の福良辺りだったと思うが、海に近かったのでまず津波の到達を恐れたのである。起き上がってすぐに、部屋から海の様子を見た記憶がある。

皆が起きてきて、全員が無事だったことを確認し、すぐにテレビを付ける。まだ朝の6時前。震源地は淡路島。ここかよ!ということでまず全員がびっくり。北部淡路島が震源なのでとりあえず津波の心配はなさそうだ。しかし震度は淡路島で6。旅館の新館に我々は宿泊していたのだが、旧館と新館を繋ぐ連絡通路には大きなひびが入っていて、揺れの強さを改めて思い知らされた。幹事の私はトップの専務理事にその日の旅行スケジュールを相談したところ、とりあえず旅館も職員も皆無事だし、予定通り進めましょうとこの時点では呑気な判断をしていたのである。ただテレビを観ていた全員が不思議に思ったのは、ニュース速報でいつまで経っても神戸の震度だけが表示されずに空白だったこと。特に神戸在住の者は心配そうに画面を見つめていた。と、ニュースは神戸市内の映像に切り替わり、あの衝撃的な阪神高速道路の倒壊を目にすることになる。この瞬間、旅行の続行は無くなった。

すぐに全員身支度を始め、神戸方面と大阪方面在住組(私も嫁も大阪組)に分かれてフェリーで神戸港、大阪港へ戻ることになった。明石海峡大橋の開通が‘98年なので本土に帰る手段は当時船しかない。仮に開通していたとしても通行止めになっていただろう。よく船が出ていたねとその後いろいろな方に言われるのだが、フェリー会社も神戸港が酷いことになっているのを知らずに出航させたようだ。もう少し中止の判断が遅ければ、淡路島に長期足止めになっていたと思う。後日神戸組に聞いたところ、神戸港の被害も酷くて、船を桟橋に付け下船するのが大変だったらしい。淡路島の確か洲本港に向かうバスの中から全半壊した家屋を幾つも見た。大阪の南港はそれほど被害を受けていなかったが、液状化なのかバスの中からは歩道が歪に変形している場所を何度も見た。吹田方面の緑地公園に住んでいた私はとにかく御堂筋沿線のキタへ、高槻に住んでいた嫁は電車が動いていた京阪電鉄で自宅を目指すことにして途中で別れる。

大阪駅まで辿り着いた私は公衆電話で福岡の実家に電話をした。ケータイなんて無い時代である。まだ朝の早い時間帯だったと思うが、この頃は電話も繋がったのだ。電話口に出た母に「今関西が大変なことになっている。俺は大丈夫だから。」と矢継ぎ早に伝えたのだが、起きたばかりの母は何のことか理解できないようだった。すぐにテレビを付けてもらい事の重大さに驚いていた。自宅へ帰るための市営地下鉄御堂筋線と北大阪急行線は高架部分の緊急点検のために運行中止でその先へ進めない。歩くにもかなりの距離があるので、タクシーを待つことにした。当然タクシー乗り場は大混雑である。見上げた先の大阪マルビルの電光掲示板には流れるニュース速報が一周するごとに数百人単位で増加する犠牲者の数を伝えている。今起きている現実が信じられなかった。

タクシーを最後尾で待っていると新聞記者に声をかけられた。こちらが淡路島から戻って来たばかりだと話すと彼らの恰好の情報ソースとなった私はそのまま取材を受けることになった。それから何時間待ち続けただろうか。ようやくタクシーに乗車できて、通行止めにはなっていなかった新御堂筋を走ってもらい自宅へ夕方近くに帰宅できたのである。

出身会社に借り入れてもらった自宅アパートの部屋は結構狭く収納スペースも無かったので(通勤の利便を取るか広さを取るかで私は前者を選択)、本など持ち物が多かった私は転勤後に組立家具を購入して壁一面に棚を設けていた。その中に大量の書籍を入れたのが功を奏したのか、ドア付近に収納していたカセットテープは散乱してドアの開放を邪魔したが、棚に収納していた書籍などはほとんどそのままの状態だった。帰宅して出身会社と実家に電話するが全く通じない。テレビを付けると、年末に訪れた神戸の街が火の海になっている。これも後日、兵庫在住の職員の方々に伺ったのだが、神戸港で下船してから其々の自宅に帰るまではまさに戦場だったという。公共交通は全てストップ。あらゆるものが倒壊し、火の手が上がる瓦礫の中を、例えば西宮まで徒歩で帰ったそうだ。自宅に辿り着いた時は日付も変わっていたことは言うまでもない。

自宅が全壊した方もおられたし、普段自分の寝ていた場所に大きな箪笥が倒れてきたらしく、「自宅で寝とったら、お陀仏だったわ」なんて語る大先輩もおられたが、淡路島旅行によって自宅での就寝中に遭遇しなかったことが幸いしたのか、職員一同、家族も含めて人的被害を受けた方はいなかった。私は御堂筋線と北大阪急行線が高架の損傷によりしばらく運休となったため、少し離れた阪急千里線で通勤することになった。1ヶ月後には我々の法人が企画・運営する国際シンポジウムの開催が大阪で予定されていて、国際的に著名なゲストスピーカーを何人も招聘していたのだが、この地震により一時開催が危ぶまれた。しかし参加者の暖かいご支援もあり、このような緊急事態にも関わらず予定通りの開催を遂行、成功裡に終えることが出来た。そして、この一大イベントを無事終えてホッとしたのもつかの間、翌3月には我々職員も頻繁に出向く霞が関を狙った地下鉄サリン事件が起こる。この時も珍しく本省への出張者がほとんどおらず、皆事務所のテレビの前に釘付けになっていた。

1995年は私や私の身近な人たちが間一髪で命拾いをした災害や事件に遭遇した年であり、一生忘れることはできないだろう。しかし、その一方で犠牲者となられた方とその家族は、それまで幸せだった人生を大きく狂わされた。今、自分が生きていること、家族があることに感謝するとともに、多くの犠牲者への哀悼の祈りを捧げたいと思う。

阪神大震災20年

[参考・引用]
[1]<阪神大震災20年>心に刻み前へ…各地で追悼・慰霊の行事、神足俊輔、川口裕之、毎日新聞、2015年1月17日、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150117-00000080-mai-soci
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Posted on 2015/01/17 Sat. 23:51 [edit]

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