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大きな夢をタイヤにのせて  

大きな夢をタイヤにのせて

前回のクルマの絵本で紹介した「タイヤのひみつ」は、㈱ブリヂストンの全面協力を得ている。ブリヂストンは世界最大のタイヤメーカーであり、2012年の売上高は約3兆円(380億ドル)[1][2]。今や押すに押されぬ大企業である。そんなブリヂストンの創業者、石橋正二郎の伝記本「大きな夢をタイヤにのせて」(桜井信男・文、高田 勲・絵、PHP研究所)を本日は紹介する。とにかくスケールの大きい実業家なので様々な事業の積み重ねを経てブリヂストンという会社を興した。したがって長い紹介文になるがご勘弁いただきたい。

石橋正二郎
石橋正二郎

石橋正二郎は私の故郷、福岡県出身の大実業家である。私も『ブリヂストンは創業者・石橋の英語読み、ストーン・ブリッジ(Stone Bridge)をひっくり返してブリッジ・ストーン→ブリッヂストンになったげな(なったらしいぜ)』と創業者名と社名の由来を、子供の頃から刷り込まれていた。それくらい地元、特に彼の郷里、久留米市においては特別な人だと思う。

彼の父、石橋徳次郎は下級武士であった龍頭家の出。明治維新後に筑後(久留米)の大豪商、叔父の緒方安平の店「志まや」に奉公した。その後、安平の長女マツと結婚し、マツの母方の実家石橋家の養子となる。徳次郎は安平の仕立屋事業を担当していた経緯で、後年よろず仕立屋「志まや」を暖簾分けしてもらった[3]。そういう環境で、正二郎は1889年(明治22年)に石橋家の次男として生まれた。

彼は地元の久留米商業学校(現久留米商業高等学校)を卒業する。当時落第が多すぎると商業学校の生徒らによるストライキ騒動が起こった際も、我関せず焉と勉学に励む非常に成績優秀な生徒であった正二郎は、旧制神戸高等商業学校(現神戸大)の校長先生の講演を聴き、神戸高商への進学を希望した。自分の思った通りにやるという信念の強さは、大叔父(本書では正二郎のおじいさんという表現になっているが、正確には彼の祖母の兄弟)、安平譲りのようである。

しかしもともと病弱で心臓病を患っていた徳次郎は、正二郎と兄・重太郎に家業を継いで欲しいと進学を認めなかった。正二郎に期待をかけていた久留米商の校長も説得を試みたがついに首を縦に振ることはなかった。病弱な父を思い、父の強い意志を受け止めた正二郎は、進学を諦めて17歳で家業を継ぐことになった。徳次郎は兄ではなく彼に印鑑を手渡す。新しいモノ好きで外交的な重太郎に外向けの仕事を、正二郎に内向けの仕事を任せようと思っていたからなのだが、後年この判断が実に正しかったことが証明される。

大きな夢をタイヤにのせて その1
「おい、石橋。きさんな…」(「大きな夢をタイヤにのせて」より)

余談ではあるが、彼が久留米商時代のシーンは私にとっては非常に違和感があった。学生らの会話が標準語なのである。当然といえば当然なのだが、福岡出身の私が読むとこんな言い方しないよなと思わず笑ってしまう。ストライキに参加しない正二郎を待ち伏せした学生が言う。「おい、石橋。おまえは、おれたちとつきあいたくないらしいが、そうはさせないぞ」は実際こんな感じになるのだろうか。「おい、石橋。きさんな、おいたちとつきあいたくなかんごたぁやけど、そーはしゃしぇんばい」-何せ四半世紀以上故郷から離れているもんで、方言が錆ついとります。なのでこんな博多弁翻訳サイトを参考に。外国語の感覚なのね。でも、こっちの方が迫力あるでしょ。(正確に言えば久留米弁をしゃべったハズです)

志まやたび本店
当時の「志まやたび」本店[4]

さて当時の「志まや」は、地元では『志まやたび』が評判だったものの住み込みの徒弟7、8人で手縫いの仕立てをする零細企業であった。家業を継いだ年、兄が軍隊に入り訓練を受けるため、正二郎一人で「志まや」をやりくりしなければならなくなった。「志まや」を全国区に広めたいと夢を抱く彼は、経営を一から見直す。まず、シャツやズボン下、脚絆(きゃはん)に足袋といった種々雑多な品物の注文に応じる非能率的な仕立物業に見切りをつけ、「志まや」の事業を評判だった『志まやたび』に絞る、すなわち足袋作りを専業にすることを父に相談せずに決断した[4]。今で言う選択と集中の経営である。従業員も無給だった徒弟制を改め、職人として給料制で雇うことにした。言っておくが今なら高校生、正二郎18歳のときの経営判断である。

1年足らずで兄・重太郎は軍隊から戻ってくるが、弟の経営には口を出さない、自分は営業でどこへでも行くと兄弟得意分野を良くわきまえている二人三脚であった。正二郎の経営センスはこれだけに留まらず、手縫いからミシンを使った機械縫い、さらには40人が働く工場を作って、ミシンも石油発動機で動かすようにした。この頃には年に20万足以上の足袋が売れるようになったが、事業の成功を見届けるように父徳次郎が他界した。重太郎が二代目・徳次郎を継ぎ、さらに電力が使えるようになるとミシンをモーターで動かせるようにした。設備投資に対する決断も早かった。販売の方も、兄を含め何人もの行商人が各地へ売り込みに行った。

自動車によるプロモーション 自動車宣伝のパンフレット
本書の表紙にもなった自動車による「志まやたび」プロモーションと当時の宣伝パンフレット[4]

そんなとき、見聞を広げるためだと正二郎は上京をする。1911年(明治44年)のことだ。久留米に戻って来るや自動車を買って宣伝に使おうと兄に持ちかける。1911年というと国内自動車産業のさきがけとなった日産自動車の源流でもある快進社自動車工場を橋本増治郎らが設立した年である[5]。自動車の国産化がまだ始まったばかりの東京で彼は自動車に試乗をしてきたのであった。当時の値段で2,000円、足袋工場の機械全部に相当する大金だったが、彼はちゃんと資金を貯めていた。アメリカ製のスチュードベーカーを注文し、翌1912年に九州で初めての自動車が届いた。行動派の徳次郎は早速運転を覚え、九州第一号の運転免許を取得した。幌を外してオープンカーにし、「志まやたび」の横断幕にのぼり旗、造花で飾りつけると九州中の町から町へと走らせた。この宣伝が大当たり。どこへ行っても大評判になり、足袋の売れ行きもぐんぐん上昇した[4]。正二郎は今では当たり前だが、マーケティングにおけるプロモーション(販売促進活動)の重要性を早くから気づいていた。

志まやたびからアサヒタビへ
志まやたびからアサヒタビへー正二郎のブランド戦略[4]

これ以外にもこれまで布地の質や大きさで値段の異なっていた足袋を20銭均一で販売する戦略を採用した。これにより商品の仕様ごとに伝票を書いたり計算したりする手間が省け、流通の革新につながった。さらに商品の名称も「志まやたび」から当時としてはモダンなマークを使用して「アサヒたび」に変えた。「アサヒたび」は爆発的に売れた。そして足袋専業化以前の日産280足から2万足への生産拡大の機に、「志まやたび総本店」の屋号を捨て1918年「日本足袋株式会社」を設立、徳次郎が社長、正二郎が専務となった[4]。いわゆる「ブランド」戦略に打って出た訳である。

以上のように10代後半から20代の若さで、家業の労働、生産、販売、流通の近代化、そしてブランディングと現代の経営に勝るとも劣らない手法で事業を拡大していった正二郎は、実業家として天賦の才を持っていた。さらに「アサヒたび」を売り出してから、正二郎は当時広がり始めた映画に目を付けた。映画会社に頼んで『たびのできるまで』という映画を作り、当時は大都市以外に映画館が無い時代だったので、映写技士、弁士(無声映画の内容を説明をする人)、音楽士、足袋の販売員で一つのチームを作り、巡回宣伝に繰り出させた。まさにメディア広告、プロモーションビデオの先駆けであるが、正二郎の旧弊を捨て新しいものを効果的に取り入れるこの類まれなセンスには驚かされる。

「アサヒたび」は特に北九州の炭鉱や製鉄所、造船所の売店でよく売れた。当時の労働者は足袋を履き、草鞋を付けて足元を固めるのが普通だったが、草鞋は一日で一足がダメになった。草鞋と足袋で月1円50銭かかっていたので、日当1円の時代にはかなりの出費になる。正二郎は足袋と草鞋を一つにしたものを作れないだろうかと考えるようになった。足袋底にゴム板を縫い付けたものは既に関西や岡山で出回っており、ゴム長靴も雪の多い北日本を中心に使われ始めていた。正二郎は次にこのゴムという素材に注目するようになった。いよいよ石橋正二郎とゴムとの出会いである。

アサヒ地下足袋
アサヒ地下足袋、今の子供たちは地下足袋知っているのかな?[6]

彼は自らもゴムについて学び、社員も岡山のゴム会社に派遣し勉強させた。足袋工場の脇にゴム加工工場を作り、ゴムの生産では重要な「加硫」工程も含め全て自社内でできるようにした。既製品のゴム底足袋を調査したり、兄・徳次郎が東京で購入したアメリカ製の丈夫なテニスシューズを徹底的に研究した結果、テニスシューズはゴム底足袋のように上の布部分とゴム底を糸で縫い合わせてはいない、ゴムのりで貼りあわせていたことがわかった。正二郎は大阪の国立工業試験所を訪ね、改めてゴムについて学ぶとともに、専門の技術者も社員に雇い研究室も設けた。毎日研究を続け、改良に改良を重ねた結果、滑らず、水も入らない、軽くて長持ちする新しいゴム底足袋が完成した。「アサヒ地下足袋」と名付けられたこの商品は1923年(大正12年)に販売され、同年の関東大震災での復興作業にも使われたことで、瞬く間に全国へ広がった。翌年、日本足袋の工場の大半が火事で焼失してしまうのだが、正二郎は日本で最初の高層建築の工場を建設し、ヘンリー・フォードの始めたベルトコンベア式の流れ作業を導入した。こうして新たに完成した工場では5千人もの工員が働き、一日に10万足の地下足袋を生産した。そして今日に至るまで正二郎の考案した「地下足袋」は現場作業で重宝され続けている。

ゴムの加工技術を手に入れた正二郎はこのままでは満足しなかった。地下足袋だけでなくゴム底のズック(運動靴)も生産するようになる。私も子供の頃に上履きや通学靴でお世話になったであろうズックのアサヒは、ブリヂストンの源流だったのである。布地の原料である綿花、ゴム底の原料である生ゴムは、いずれも海外からの輸入品である。輸出入のバランスが取れていなければ国の発展にもつながらない。そう考えた正二郎はゴム靴の海外輸出、すなわち会社の国際化に取り組む。中国はもとより、東南アジア、そしてヨーロッパにまでアサヒのゴム靴が輸出された。

1911 STUDEBAKER
1911 STUDEBAKER[7]

ところで、宣伝用に購入した九州で最初の自動車スチュードベーカーはその後どうなったか。彼はそれ以来、自家用車にして便利に使っていた。地下足袋、ゴム靴とゴム製品を手掛けてきた正二郎が、同じゴムで作られた自動車の足―タイヤに興味を持たないはずがなかった。彼は自動車を巡る日本や世界の動きを調べていた。1928年(昭和3年)、彼は徳次郎に自動車タイヤの生産に着手したいと相談をする。それまで新しいことに挑戦する弟の提案を全て受け入れてきた徳次郎だったが、こればかりはYESとは言えなかった。これまで手掛けてきたゴム製品とタイヤとは生産規模、投資規模が違い過ぎる。日本のタイヤメーカーもまだなかったし、技術的ハードルも高い。当然、徳次郎はそのリスクの大きさを分かっていたのだ。

しかし正二郎はこうと決めたらてこでも動かぬ、大叔父安平譲りの横道もん(博多弁で強情者)。頭脳明晰な彼らしく、数字を使ってアメリカの現状を説明し(1916年にはダンロップ社が世界最大の自動車タイヤ会社になっていた)、日本もいずれ500万台の自動車が走る時代が来る、そうすれば数千万本という新しいタイヤが必要になると説いた。社内の専門家の否定的な見解に対して、最後には日本のゴム研究では第一人者、地元九州帝国大学の教授(君島武男工学博士[8])に意見を求め、研究費があれば不可能ではないという言葉を引き出した。こうして正二郎は教授への研究援助を約束し、タイヤ作りの方向を決めてしまった。すぐに研究室を立ち上げ、倉庫をタイヤ工場に変えて、アメリカから取り寄せた300本/日のタイヤが生産できる高価なタイヤ機械を設置した。

BSマーク
かなめ石にBSのイニシャル、ブリッジストンマーク[8]

注文したタイヤ機械には金型も含まれ、タイヤに付けるマークを決めなければならない。そこで将来の海外輸出まで考慮した結果、冒頭に紹介したブリヂストンの名前が誕生する(当初のブランド名はブリッヂストンで、現ブリヂストンの名称を使うのは戦後1951年から[9])。英語の“Bridge Stone”は石で橋を築く場合に、その支えの中心になる楔型のかなめ石のことを言うのだそうだ。そこでブランドマークは楔型の石の中に、Bridge Stoneの頭文字であるBSを並べたものになった。こうしてブリヂストンの第一歩が始まったのである。

第一号タイヤの誕生
BS第一号タイヤの誕生[8]

日本足袋はタイヤ部を設置し、国産タイヤの試作に取り掛かる。しかし担当者は皆素人同然。知識や技術に乏しく、輸入機械の仕様書だけを頼りに手探り状態で開発を進めなければならなかった。そんな状況の中でも正二郎は「日本の資金と日本人の技術者の力で、世界一のタイヤを作りあげねばならぬ」という信念を貫いた。苦労の末、1930年4月、ついにブリヂストンタイヤ第1号が誕生した。ブリヂストンタイヤの試作とテスト販売が成功したことで、日本足袋のタイヤ部を独立させ、1931年「ブリッヂストンタイヤ株式会社」を設立し、正二郎は社長になった。既に日本足袋の社長も徳次郎から引き継いでいたので、“二足の草鞋”での船出であった[6]。正二郎は会社の信用を第一と考え、故障タイヤが生じた場合は、責任をもって無料で取り換える基本方針を打ち出した。この当時に製造物責任(PL)という概念を持ち込んだのである。しかし、これはまだ技術的に未熟だったブリッヂストンタイヤにとっては厳しい条件だった。1933年(昭和8年)には25万本のタイヤを出荷したが10万本を無料交換、工場内は返品の山となった。「物事の初めはいつだって辛い。でもすぐに返品にならないタイヤにしてみせる」という正二郎の言葉とおり、研究を深め、積極的な設備投資と販売網を強化した結果、値段も下がることで需要も増え、次第に当時の国内市場の大半を占め、採用基準も厳しかった外資の自動車メーカーがブリッヂストンタイヤを買い上げるようになった。こうして久留米という一地方都市が、日本を代表するゴム工業都市となった。正二郎は1937年に日本足袋の社名を「日本ゴム」に改め、ブリッヂストンタイヤ本社も東京に移し、自分も東京に移り住んだ。

大きな夢をタイヤにのせて その2
返品タイヤの山(「大きな夢をタイヤにのせて」より)

太平洋戦争を挟んだ正二郎のエピソードも興味深い。開戦後間もなく、日本軍は南方作戦でインドネシアのジャワ島に上陸し、いち早くアメリカのタイヤ工場を抑えた。ここは当時世界一のタイヤメーカー、グッドイヤー社の南方唯一の現地工場であった。軍需部品としてもタイヤは非常に重要である。軍部は、正二郎に工場へ社員を派遣し、現地従業員を監督・指導して軍隊用のタイヤを生産することを命じた。戦時中英語表記は敵性語で、ブリッヂストンタイヤも「日本タイヤ」に一時名称を変えている[9][10]。“タイヤ”も敵性語ではないかと思うのだが…?。正二郎は現地に派遣する責任者を呼んで次の社命を下す。「世界一のグッドイヤーを見ればわかるように米国は強大国です。もしも日本がこの戦いに利あらず、君たちがジャワ島から引き上げることになったら、軍の命令のままに工場の設備を壊すことは決してしないように。占領といえども我々は一時的に使わせてもらうだけだと思って下さい」と諭した。勿論、この彼の言葉は現実のこととなり、社員は社命を守って占領前よりも立派な状態にして工場を返却した。日本が破竹の勢いで戦果を上げていた時点で、リスクを冒しながらも非常に冷静に国際情勢を分析した洞察力と判断力。これは自らの目と手で米国の技術力を体感した者でないとわからない。それ以上に、敵国の設備を「使わせてもらう」とはなんという謙虚さであろうか。並みの人物ではこういう発想は出ないだろうし、モノづくりに彼の並々ならぬ敬意と愛情を感じさせるエピソードだ。戦後、グッドイヤー社のリッチフィールド会長が来日、正二郎と会見した際に、彼の両手を握って前述の対応に感謝の意を表したという。以来、お互いに信頼関係を得て、1951年には両社公平な条件で技術提携が結ばれる。本書が語るブリヂストンと正二郎の物語はここまで。戦後から現在までをさらに詳しく知りたい場合は[11]を参照されたい。

大きな夢をタイヤにのせて その3 正二郎とリッチフィールド会長
握手をかわす正二郎とリッチフィールド会長(「大きな夢をタイヤにのせて」より)

ここまで石橋正二郎のことを知る機会は後にも先にもないとは思うが、社会人の私が本書を通読した感想は、非常に丁寧かつわかりやすい良質の経営書だということ。あとがきにもあるように、彼はひどい貧乏の中から身を起こした人でも、こつこつと一つのことに取り組んだ人でも、学問や芸術に秀でた人でもない。また自分を犠牲にして世のため人のために尽くした人でもない。しかし優れた会社経営者、またモノ作りとはいかなるものなのか、いかにあるべきかを教えてくれる。本書の対象読者は小学中級以上と、うちの愚息もその中に入るが、彼らが読むと一体どんな感想を持つのか非常に興味がある。日本の小学生の将来の夢には「会社社長」が全くランキングしないそうだが、本書に啓発されてスケールの大きい未来の社長さんがたくさん生まれるといいなと思う。石橋正二郎もけっこうマニアックな選択だと思うが、この「PHPこころのノンフィクション」シリーズでは、世間ではあまり知られていない人物が数多く取り上げられている。モノ作り系だけでもピックアップすると、日本で最初にオルガンを作った山葉寅楠とその弟子の河合小市、バイオリン製作に人生を賭けた小沢僖久二、防災建築に打ち込んだ遠藤於兎、真円真珠を作り上げた御木本幸吉、テレビ技術のパイオニア・高柳健次郎など。いずれも知る人ぞ知る方ではあるが、セレクトがマニアックすぎるでしょ。児童向けだよ。小沢僖久二や遠藤於兎なんて全く知らなかった。

坂本繁二郎
久留米出身の洋画家・坂本繁二郎
正二郎の図工の先生だった彼は、正二郎の美術コレクションに影響を与える

1976年(昭和51年)に87歳で亡くなった石橋正二郎は、数々の遺産を残した。遺産といっても、孫の鳩山由紀夫元総理大臣閣下が、母親(正二郎の長女安子)から多額の「子供手当」を貰っていた[12]といった下世話な話だけではない(長者三代伝わらずとは良くいったもので、正二郎の偉大さを知れば知るほど孫のレベルが気の毒すぎるが)。彼はゆかりの地に多大な社会貢献を施している。久留米市への石橋文化センターや久留米工場脇のケヤキ並木通り(ブリヂストン通り)の寄贈、久留米大学への寄付の数々、東京工場のある小平市への公共・福利厚生施設の寄贈等々。中でも石橋美術館や東京ブリヂストン美術館を作って芸術文化にも多大な貢献をしていることは有名である。私は何故美術館なのだろうと昔から疑問に思っていたのだが、本書を読むとその理由がわかる。

こういうフィランソロピーを実践している篤志家は、アメリカの成功者にはよく見られる。鉄道王ヴァンダービルト、石油王ロックフェラー、鉄鋼王カーネギー、金融王J.P.モルガン、そして自動車王フォード。日本人にはなかなか存在しないスケール感だが、タイヤ王石橋も彼らに負けず劣らずの稀有な人ではないだろうか。彼の行(公)動力の源は、本書の一貫した主題である「どんな仕事でも世の中のため、人のためになることでなければいけない。儲けのためだけだったら失敗する」という彼の基本の考え方にある。

そんな彼が創業したブリヂストンが先月、自動車部品の価格カルテルに関与したことを認め、4億2500万ドル(約435億円)の罰金を支払う米国司法取引に同意した。同社は2011年に別の価格カルテル事件にも関わっており、今回再摘発されている[13][14]。「世のため、人のため」を実践した正二郎は、このニュースを聞いてどう思うだろう。

[参考・引用]
[1]12年の世界タイヤ売上高ランキング、ゴムタイムス、2013年9月23日、
http://www.gomutimes.co.jp/?p=56417
[2]世界のタイヤ市場シェア2012(売上高ベース)、ブリヂストンホームページ、
http://www.bridgestone.co.jp/corporate/library/data_book/pdf/BSDATA2013_additional.pdf
[3]石橋正二郎、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%AD%A3%E4%BA%8C%E9%83%8E
[4]1906~1929年 第1章 当社創業の基盤―創業前史、ブリヂストンホームページ、
http://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/01_01.html
[5]日産自動車前史、会社概要、日産自動車ホームページ、
http://www.nissan-global.com/JP/COMPANY/PROFILE/HERITAGE/HISTORY/
[6]なぜ久留米にゴム産業が発達したのか、坂田隆之、久留米ネット研究会、
http://www3.ocn.ne.jp/~carechi/document.html
[7]1911 STUDEBAKER、THE OLD CAR MANUAL PROJECT、BROCHUERS、
http://www.oldcarbrochures.com/static/NA/Studebaker/1911%20Studebaker/dirindex.html
[8]1930~1936年 第2章 創業の経緯と創業期の苦難、ブリヂストンホームページ、
http://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/02_02.html
[9]ブリヂストン、会社のネーミング、
http://www.mothernaturesllp.com/companynaming/bridgestone.html
[10]ブリジストン久留米工場(タイヤ生産と工場拡大)、世の人の楽しみと幸福の為に 石橋正二郎、
http://www.kumin.ne.jp/akebono/0akebono/syuoujirou/isibasi2.htm
[11]ブリヂストン物語、ブリヂストンホームページ、
http://www.bridgestone.co.jp/corporate/history/story/index.html
[12]鳩山家「子ども手当」の構造 母親のブリヂストン株原資に?、J-CASTニュース、2009年12月3日、
http://news.livedoor.com/article/detail/4485651/
[13]ブリヂストン、米で罰金435億円、共同通信、SankeiBiz、2014年2月15日、
http://www.sankeibiz.jp/business/news/140215/bsg1402150500000-n1.htm
[14]増殖するカルテルリスク、佐藤浩実、時事深層、日経ビジネス、2014年3月3日号

大きな夢をタイヤにのせて―人びとのための生産をねがいつづけた石橋正二郎 (PHPこころのノンフィクション)大きな夢をタイヤにのせて―人びとのための生産をねがいつづけた石橋正二郎 (PHPこころのノンフィクション)
(1986/08)
桜井 信夫

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Posted on 2014/03/08 Sat. 13:28 [edit]

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