世界一速い車をつくった男

FIT3も好調、ホンダが四輪販売50周年を迎えた今年、クルマノエホンでもいくつかのホンダ本を紹介した。10月にはホンダ黎明期を知る数少ない一人、本田技研工業の2代目社長、河島喜好氏が亡くなり、別な意味でも節目の年となった。今年も日本人の前には数多くの困難な問題が立ちはだかっているけれども、こういう状況下では本田宗一郎の生き方・考え方がとても参考になると思う。昨今の政治家には、我々の儀表となる人物がいないことが、今の日本の不幸かもしれない。単なる企業人という枠に収まりきれないアントレプレナー、本田宗一郎について、子供に読ませる伝記本としては本日紹介する『世界一速い車をつくった男 本田宗一郎』(ひのき慎二・画、毛利甚八・原案、中嶋悟・解説、小学館学習まんが人物館)が良いだろう。もちろん既出の『空とぶオートバイ』も良い本だ。私は最初、息子に同じ作者による『本田宗一郎本伝』(毛利甚八・作、ひのき慎二・画、小学館)という分厚い方を与えたのだが(分厚いので時間もつぶせるだろうと)、彼は「難しくてよくわからない」とすぐに投げ出してしまった。よくよく見てみると内容は大人向けの企業コミック。そこで本書を改めて与えてみると、「面白い」とあっという間に読み終えてしまった。

13歳の頃の本田宗一郎
13歳の頃の本田宗一郎(『世界一速い車を作った男 本田宗一郎』より)

本田宗一郎は、1906年静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区二俣町)に、鍛冶屋をしていた本田儀平の長男としてこの世に生を受けた。この3年後の1909年、光明村から少し北へ向かった周智郡気多村(同じく同市天竜区春野町)に、その後ミスターK、フェアレディZの生みの親として全米に知れ渡った米国日産初代社長、片山豊が生まれている(御年104歳でいまだ意気軒昂)。米国自動車殿堂入りしている数少ない日本人の中で、特に有名なこの2人のカー・ガイがほぼ同時期、同じ地域で生まれたことは非常に興味深い[1]。

タクリー号
タクリー号(『日本の自動車の歴史』より)

さて1906年(明治39年)というとどういう時代背景だったのだろうか。「日本の道を最初に走ったクルマ」で紹介したように日本で最初の自動車が公道を走ったのは1898年。宗一郎が誕生して翌年、国産初のガソリンエンジン自動車、オートモービル商会の「タクリー号」が発表されている。海外に目を移すと、T型フォードの大量生産が開始されたのが1908年のことだ。時はまさに自動車の黎明期。そんな自動車の夜明けとともに、自動車の申し子、本田宗一郎も誕生したのである。

アートスミスの曲芸飛行ショー
本田宗一郎と榊原郁三を結び付けたアート・スミスの曲芸飛行ショー(『世界一速い車を作った男 本田宗一郎』より)

1914年、彼が尋常小学校3年生のとき、光明村の田舎道を黒光りした幌付きのセダンが走っていた。宗一郎が初めてみる“自動車”だった。油のにおいに感激する宗一郎。11歳のとき、浜松市(当時)でアメリカ人の曲技飛行士、アート・スミスの大曲芸飛行ショーが開催された(※1)。飛行機をどうしても見たかった宗一郎は、親の財布からお金を盗み、夜中にこっそり家を出て、自転車で浜松まで観に行った。お金の足りない宗一郎は、入場料の必要な会場である和地山練兵場には入れない。頭の良い彼は、会場の外に立つ木に登って心ゆくまで飛行機を楽しんだ。家に帰れば当然叱られると思っていたが、父・儀平は怒るのも忘れ、夢中になって宗一郎の話に耳を傾けたという。F1もホンダ・ジェットも、この頃の原体験が元になっているのだろう。その他、子供時代のエピソードは『空とぶオートバイ』に詳しい。

(※1)この飛行ショーを東京で観て影響を受けた男がもう一人いる。榊原郁三、のちに本田宗一郎が丁稚奉公をする自動車修理工場「アート商会」の創業者である。彼はこのアクロバット飛行を観て驚嘆し、自分の興した会社を「アート商会」と名付けたのだそうだ。歴史のレールが引かれていたかのような二人の不思議な因縁である[2]。

世界一速い車をつくった男 その1
『世界一速い車をつくった男 本田宗一郎』より

彼が本格的にクルマと関わるのは高等小学校卒業後。決して裕福な家庭ではなかったが、父・儀平は宗一郎を中学にやっても良いと考えていた。しかし、彼は早く自動車と関わる仕事をしたかったので、遠回りはしたくなかった。雑誌で求人広告を見つけた彼はすぐに、東京文京区湯島にあった自動車修理工場「アート商会」の門を叩く。1922年のことだ。自動車について学びたかった宗一郎だが、当時はまだまだ丁稚奉公の世界。子守や掃除ばかりでクルマをなかなか触らしてくれなかった。彼が最初に修理を任されたのはT型フォード。簡単な作業だったが彼は夢中で仕事を続けた。アート商会1年目、関東大地震での八面六臂の活躍は『空とぶオートバイ』で紹介したが、この逆境に強い彼の精神力を買われたのだろう、翌年彼は消防車の修理のため盛岡への出張を命ぜられた。まだ18歳の宗一郎は消防団の人から信用されていない。用意された宿も粗末なものだった。しかし、彼は消防団の人たちの心配をよそに、故障の原因を見つけ、的確に修理を成し遂げる。すっかり信頼を得た宗一郎は、一転して関係者から歓待を受けたという。技術は多くの人を助ける、喜ばせる、そう学んだ宗一郎であった。

アート商会浜松支店
アート商会浜松支店(『空とぶオートバイ』より)

6年間の修業を終え、彼は故郷静岡に戻り、浜松市内に暖簾分けされた「アート商会浜松支店」を開業する。従業員わずか1名。しかし自動車が徐々に世の中に浸透し始めた時代。従業員もどんどん増え、ひととおりの技術を教えると、あとは従業員に全部を任せ、宗一郎は最終検査をするだけだった。しかしこの検査が非常に厳しい。こと技術に関しては妥協を許さない男だ。この人一倍厳しい彼の指導に、逃げていく従業員も多かったそうだが、淘汰されて優秀な従業員だけが残った。このことが「アート商会」の評判をさらに高めることになった。今ならアート商会=ブラック企業なんて言われるところだろうが、利益優先ではなく従業員の成長を願った真の厳しい教育・指導であれば、結果的に顧客のためになり、会社の強みにもなり得る。会社をすぐリタイアする昨今の風潮は、会社に問題があるのか、社員が本当のプロフェッショナルな仕事の意味をわかっていないのか、よーく吟味する必要がある。

1935年には生涯をともにするさち夫人と結婚をし、公私ともに順風満帆に見えた宗一郎であったが、なぜか心の中は満たされない。それは自分が技術者として生きた証を何か残したかったからではないだろうか。本書の巻末で元F1レーサー、中嶋悟氏が解説しているのだが、人は運転でも車作りでも技術を追求していったら、その技術の高さをどこかで証明したくなる。宗一郎も最初は自分の喜びのために車の仕事をしたのだと思うが、いつしか日本一、世界一の車作りを目指したのだと。

自動車競走中の転覆
自動車競走中の転覆(「浜松号」リタイア)[3]

その証の一つがレースに出ること。自動車の技術屋にとって、スピードへの挑戦であるレースは自らの技術力を証明する格好の舞台である。W.O.ベントレーF.ポルシェなど、過去にも名だたる技術者がレースに挑戦をしてきた。このエピソードは本書では登場しないが、宗一郎も’36年、弟・弁二郎とともに日本初の自動車サーキットである、多摩川スピードウェイ(多摩川河川敷に設けられたオーバルコース)で開催された第1回全国自動車競走大会(※2)に、フォードをフルチューンした「浜松号」で出場する。「浜松号」は実に速かった。時速120kmで快走を続けトップを周回していた最後の一周、前方で修理停車している車を避けようと横転、宗一郎は弁二郎とともに宙に舞った。二人とも一命は取り留めたが重傷、無念のリタイアとなった[3][4][5][6]。この屈辱は後のF1参戦に生きているのかもしれない。

(※2)この大会には日産自動車など大企業も参戦したが、優勝したのは無名の町工場、オオタ自動車工業が手作業で組み上げた「オオタ号」。日産の創業者であり社長の鮎川義介は、この結果にスタンドで激怒したという(3か月後の第2戦は雪辱を果たしている)[7]。

世界一速い車をつくった男 その2
なぜか心満たされない宗一郎(『世界一速い車を作った男 本田宗一郎』より)

もう一つの証は、彼独自のものを一から創造すること。フォードをどんなに完璧に修理しても、所詮フォード車に変わりはないし、フォードとしてしか残らない。ホンダの原点、独創的な製品づくりへの欲求である。彼はまず日本で誰も作っていなかったピストンリングを作ろうと思い立ち、そこから戦後ホンダ二輪の開発に繋がる経緯は「ホンダのモーターサイクル史」でも紹介した。そして四輪への挑戦。

今年販売50周年を迎えたホンダ四輪開発の光と影の部分については、別のクルマノエホン紹介の機会に譲ることにする。

世界一速い車をつくった男 その3
『世界一速い車をつくった男』より
河島喜好
哀悼、河島喜好氏

[参考・引用]
[1]片山豊、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B1%B1%E8%B1%8A
[2]第2回アート・スミス メモリアルツーリング、ただ若き日を惜しめ、2008年4月1日、
http://blogs.yahoo.co.jp/serasan0620/30577666.html
[3]ツワモノどもが夢のあと (6) -世界に羽ばたく-、徒然想、2012年4月19日、
http://shigekeura.exblog.jp/17823802/
[4]多摩川スピードウェイ、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4
[5]日本における自動車レースの曙、いえむら ひろあき、JAMAGAZINE 2011年9月号、日本自動車工業会、
http://www.jama.or.jp/lib/jamagazine/201109/06.html
[6]本田宗一郎本伝 飛行機よりも速いクルマを作りたかった男、画・ひきの真二、原作・毛利甚八、小学館、1992
[7]'34-‘50創世記。日産モータースポーツの原点。、MOTORSPORTS HISTORY、NISMOホームページ、
http://www.nissan-motorsports.com/JP/HISTORY/HISTORY/index.html
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