ホンダのモーターサイクル史

Honda 2RS143

今日の出勤途中、渋滞の中を逆走で反対車線から抜き去るバイクに腹立ったことを思い出しながら、前回紹介の「空とぶオートバイ」をモチーフに、ホンダが戦後直後の混乱期から自転車にエンジンを付けたモーターバイクの発売で大成功し、その後モーターサイクルレースの最高峰、マン島TTレースに優勝するまでの歴史について勉強してみようと思う。

ピストンリング
本田宗一郎のモノづくりはここから始まった(「学習まんが人物館 本田宗一郎 世界一速い車を作った男」より)

戦前、東京の自動車修理会社「アート商会(現・アート金属工業)」で修業をし、1928年にのれん分けの形で独立して「アート商会浜松支店(現・アート商会)」を立ち上げた本田宗一郎。自動車修理業に飽き足らず、モノの開発を夢見て、‘37年アートピストンリング研究所を作り、エンジンの大事な部品であるピストンリングの独自開発を始める。彼はモノづくりのブレークスルーには学問が不可欠と、浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生にまでなって苦労をした末、独力でピストンリング(※1)の開発に成功する。’39年にアート商会を弟子に譲って、ピストンリング製造のため東海精機重工業(現・東海精機)を設立(私はこれまでトヨタ系列のサプライヤーである東海精機が、元々宗一郎の興した会社だとは知らなかった)。その後’42年には東海精機にトヨタの資本が入り、生産を本格化させるも、戦時中は彼の意に反して海軍の軍需工場として部品を生産した。飛行機のプロペラを自動的に作る機械もこの頃発明している。そして激しい戦火と終戦の年の三河大地震で会社は多くを失った。終戦直後の日本中が皆そうだったように、何をどうしてよいかわからぬ宗一郎も途方に暮れた。

(※1)エンジンのピストンとシリンダーの隙間を埋めるもので、シリンダー内でピストンをスムーズに可動させかつ、オイルやガソリンが、シリンダーの中で混ざらないようにする部品[1]。

宗一郎は家族に“人間休業”宣言をし、一年間仕事をしなかった。私の親戚にもいたが、戦中は勇ましかったり、羽振りの良かった人が、戦後抜け殻のようになった人が多くいた。しかし、宗一郎は自分の得意なことを生かして、これから己のなすべきことを日々考えていたのだろうと思う。彼は東海精機の全株をトヨタ(豊田自動織機)に譲渡して、45万円ものお金を手に入れた。戦後初めて発行された宝くじの1等賞金が10万円だった頃の額である[2]。それを元手に‘46年、浜松に本田技術研究所を設立する。

湯たんぽバイク
宗一郎が最初に作った補助エンジン付き自転車の試作車は、本当に湯たんぽ製のガスタンを使っていたらしい(「F・1おやじ」より)

本田技研で自動織機を作ろうと考えていたちょうどその頃、軍の倉庫にゴロゴロ眠っている無線機の発電用エンジンの存在を知る。交通事情も良くない戦後混乱期には、人々は自転車に多くの荷物を載せて運んでいた。「自転車にあの小型エンジンを取りつければ…。」宗一郎はひらめいた。自転車の修理と改造なんて、宗一郎にとってはお手のもの。ガソリンタンクは湯たんぽにヒントを得て、補助エンジン付き自転車(※2)を試作する。巷で評判となって販売すると、これが大当たりとなった(この頃‘48年に本田技研工業と社名を変更している[1])。500台ほど仕入れた無線機発電用エンジンは、あっという間に底を付き、宗一郎が独自に設計したものがA型エンジン。50cc、0.5馬力のそれは、無線機発電用エンジンよりマシではあったが、山道もまともに登れない代物だった。

(※2)当時の浜松では、補助エンジン付き自転車(以下モーターバイク)のことをエンジン騒音から一般的にバタバタと呼ばれた[1]。ホンダを含め黎明期の二輪車メーカーのモーターバイクは、小型単気筒の独特の音から「ポンポン」と呼ばれ、その後浜松ではこの名称が広がっていった[3]。本によっては、ホンダ最初のモーターバイクのことを「バタバタ」とか「ポンポン」と記述しているが、どちらも正しい。

ドリーム号D型(1950)
ドリーム号D型(1950)[4]
本田宗一郎(左)と藤沢武夫(右)
本田宗一郎(左)と藤沢武夫(右)[5]

しかし、その後もホンダのエンジンは相変わらず好調な売れ行きで、A型、B型、C型と新型エンジンが開発された。そしてそれまでのパイプフレームから大量生産可能なプレス鋼板のフレームを採用した「ドリーム号D型」を開発。これもよく売れたが、根っからの技術屋だった宗一郎の商売センスは相当酷く、会社の台所は火の車だった。そんなとき、後の本田の盟友、名参謀となる藤沢武夫(元ホンダ副社長、最高顧問)との出会いがあった。既に商い業に天賦の才を発揮していたその青年実業家は、浜松に“エジソン”ありとの噂を聞きつけ、本田の元へ自身を売り込みに来た。彼らはトコトン夢を語り合い、宗一郎の信頼を得た藤沢は、‘49年本田技研に入社した。今や世界のホンダの実質上のスタートであった。このとき決められた「本田は技術、藤沢は経営、お互いの領域に口出しをしない。」との鉄則は、その後ある一件で藤沢が聖域に踏み込むまで守られる。ある一件については別の機会に譲る。さて、藤沢の入社後、会社の経営も順調、整理整頓、無駄を省くことを徹底したおかげで、会社の空気も変わっていった。

ドリーム号E型(1951)
ドリーム号E型(1951)[6]

研究開発に専念できるようになった宗一郎は新しいエンジンの開発に取りかかる。その頃の国産二輪車の主流は2サイクルエンジン。静粛性の優れる4サイクルエンジンで、箱根の山を越えられる高馬力のバイクを作ることが次の目標となった。そして独自のエンジンを考案。肝はOHV(オーバヘッドバルブ)の採用である。従来型のサイドバルブに比べ、燃料室を小型にできることで圧縮比も上げられ、吸排気もスムーズに行える。しかし機構が複雑になるため、当時の国産メーカーにとっては非常に挑戦的な技術だった。‘51年に排気量146ccのE型エンジンを積んだ試作車が完成。7月、土砂降りの雨の中で見事に箱根の峠越えが成功した。外国製も含めた他社製と比較しても、その性能は抜きん出ていた。このエンジンの設計を担当し、試作車のテストライダーも任されたエンジニアは、入社間もない河島喜好(ホンダ2代目社長)だった。こうして同年10月、「ドリーム号E型」は発売され、本田技研の名声は一気に高まった。

二輪メーカーの乱立
戦後二輪メーカーの乱立も4社に淘汰された(「F・1おやじ」より)

その後も、オートバイ需要の拡大を狙って開発されたモーターバイク、カブ号F型が爆発的な人気で売れたが、この頃日本各地では二輪メーカーが乱立(町工場的なものまで含めると最盛期には200社を超えるオートバイメーカーがあったといわれる[7][8])、量産体制を整備した後に同業他社との競合によって売上も次第に落ちていく。さらに追い打ちをかけるように改良を重ねていたドリーム号4E型の不具合によりクレームが殺到、売れ行きがばったりと途絶えた。資金繰りもままならぬこの会社設立以来の危機も、宗一郎の技術的な信念と藤沢の経営手腕によってなんとか乗り越えた。「空とぶオートバイ」には記述がないが、’58年に誕生し、アメリカにも輸出されるほどになった名車、今でもそのカタチをほとんど変えていないスーパーカブC100の空前の大ヒットによるところも大きい。

スーパーカブC100
工業製品の傑作、スーパーカブC100(1958)[5]

会社の存亡にまだ一喜一憂する中での’54年、本田技研はマン島TTレースへの出場を宣言する。このレースは毎年イギリスのマン島で行われるオートバイの世界選手権、ツーリスト・トロフィ・レース。オートバイのスピードを争うこの国際レースは、モーターサイクルのオリンピックとまで言われているだけあって、11のGPレースの中でも、もっとも厳しい国際GPとして知られていた。島の一般公道一周60.725kmのコースには219のカーブがあり、高低差は実に410m。排気量クラスによって異なる周回数を走る。当時は125cc、250cc、350cc、500ccの4クラスがあった[9](現在は1000ccのスーパーバイクを頂点に、「TT Zero Challenge」というEVバイクのクラスもある[10])。


マン島TTレース:200を超えるカーブがあり、観客との距離も近い一般公道を、平均時速200km以上で駆け抜けるわけだから非常にリスキーなオートレースと言われる。先月のレースでも日本人ドライバーが予選走行中に転倒、事故死している[11]。選手も観客も命がけである。

欧州視察帰りの宗一郎

このレース出場の背中を押したのは藤沢と言われる。前述したような会社のゴタゴタ続きで士気を落としていた社員のマインドを鼓舞するには、“希望”が必要と考えた藤沢の経営者としての計算もあったのだろう。ここが、不況になるとレースからすぐに撤退する最近のモーターカンパニー経営者との度量の違いだ。もともと自分のエンジンで世界への挑戦を夢みた宗一郎は、同年TTレース視察のため、欧州へ旅立つ。そこで見たものは、同じ排気量でもホンダの3倍の馬力を持つマシンの数々。本場のレースの水準の高さと迫力に打ちのめされた宗一郎であったが、持ち前の「やらまいか(浜松など静岡県西部の方言で、やってやろうじゃないかといった意)」精神で、帰国後、世界一のオートバイを作るため研究開発に邁進するのだった。会社の正門前に掲げられた『世界一か、ほろびるか、マン島レース優勝をめさして前進しよう』という垂れ幕が宗一郎の覚悟を表わしていた[9]。

マン島TTレース初参戦のホンダチーム
マン島TTレース初参戦でチームメーカー賞受賞のホンダチーム[12]

‘59年6月、河島を監督とするホンダレーシングチームはマン島TTレース、125ccクラスに初参戦。持ち込まれたマシンのエンジンは空冷直列2気筒4バルブエンジン、最高出力は18馬力以上であった。予選は谷口尚巳のRC142が10位で最高位。本選はMVアグスターが乗るプロビニー(伊)が優勝。ホンダ勢は谷口尚巳の6位以下、7位、8位、11位に食い込んだ。ワークスモデル3台のマシンが完走したため、ホンダは初参加ながらチームメーカー賞を受賞する。

ヘイルウッドの乗るマン島TTレース優勝車(#7)
ヘイルウッドの乗るマン島TTレース‘61年優勝車2RC143(#7)[13]

それから2年後の‘61年、ホンダは第54回マン島TTレースに再挑戦した。この時の参加者は366台。日本からはスズキやヤマハも参戦した。ヘイルウッドの乗る2RC143(RC144エンジンの性能不良によりRC143のエンジンをRC144フレームに搭載したマシン[14])が念願の初優勝。1位から5位までをホンダマシンが独占した。続く250ccクラスもホンダが1位から5位までを独占。2クラスの完全優勝を遂げ、欧州のモノまねではない精巧で独創的な技術にヨーロッパチームは驚愕した。翌’62年も125cc、250cc、350ccの3階級を制覇。本田宗一郎は『オートバイで地球を征服した男』と呼ばれた。

250ccクラスも優勝
250ccクラスも優勝!:「空とぶオートバイ」ではゼッケン3がチェッカーフラグを受けているが、実際の優勝は125ccと同様ヘイルウッド。ゼッケン3はマッキンタイヤ選手のマシンで、彼は一時350ccの過去最高ラップも破るスピードでトップに立つが、エンジントラブルでリタイヤ[9]。

[参考・引用]
[1]学習まんが人物館 本田宗一郎 世界一速い車を作った男、画・ひきの真二、原作・毛利甚八、小学館、1996
[2]本田宗一郎本伝 飛行機よりも速いクルマを作りたかった男、画・ひきの真二、原作・毛利甚八、小学館、1992
[3]本田技術研究所(旧)、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80_(%E6%97%A7)
[4]第7章ホンダはオートバイ・メーカーである、中部博、Power of Dream 2100『ホンダ・モビリティメーカーの近未来』連載100回、BOOK PEOPLE、
http://blog.bookpeople.jp/atlas/hiroshi_nakabe/100.html
[5]白いタンクに赤いエンジンの「カブF型」、ホンダスーパーカブ、vol.005、COMZINE、
http://www.nttcom.co.jp/comzine/no005/long_seller/
[6]Dream E、Montesa Honda Web Oficial de Honda Motos en España、
http://www.honda-montesa.es/iconos-Honda/index.php?num=3
[7]F・1おやじ 本田宗一郎の生涯、高橋透、汐文社、1994
[8]モーターサイクルの日本史、(社)日本自動車工業会・編、山海堂
[9]空とぶオートバイ、那須田稔・作、阿部肇・絵、ひくまの出版、1985
[10]伝統の公道レースの最高峰、マン島TTレースで「神電」が2位に!、Hisashi Mori、autoblog日本版、2012年6月12日、
http://jp.autoblog.com/2012/06/12/the-isle-of-man-shinden/
[11]マン島TTレースに参戦中のライダー、松下ヨシナリが事故死、レスポンス、2013年5月28日、
http://response.jp/article/2013/05/28/198839.html
[12]世界を夢見て~マン島TTレースへの挑戦~、ホンダホームページ、
http://www.honda.co.jp/Racing/race2002/manx/menu2_2.html
[13]1961 Isle of Man TT Race 125cc, Mike Hailwood、1961 Races、Honda Worldwide Home、
http://world.honda.com/MotoGP/history/1961-Races/photo/pages/15.html
[14]2RC143/RC144、ホンダ HONDA、日本のファクトリーレーシングモーターサイクル、
http://jfrmc.ganriki.net/rc144/rc144honbun1.htm
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[ 2013/06/26 00:00 ] cars/車のお勉強 | TB(0) | CM(0)

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