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F・1おやじ-エンジンにいのちをかけた男・本田宗一郎の生涯  

F・1おやじ

ホンダが2015年シリーズからF1に帰ってくる。2009年シーズンからの撤退以来、しかもマクラーレンと共に[2]。私にとっては、学生時代から入社したての頃の80年代、F1ブームの中でのまさに敵なしといえる輝かしい戦歴('88シーズンにはマクラーレン・ホンダで16戦15勝!)が脳裏に焼き付いている。そのホンダがF1での輝きを失いつつあった'91年、日本が生んだ世界のカーガイ、社員からは尊敬と親しみを込めて”おやじ”と呼ばれた本田宗一郎がこの世を去っている。ホンダのF1初参戦は'64年シーズンから。4輪メーカーとしてはまだ新参者だったホンダがF1で初優勝を果たすのは、そのわずか1年後のメキシコGPでのことである。SONYと並ぶ戦後の日本経済復興の象徴であり、今や世界のホンダとなったこのグローバル企業を興した本田宗一郎に関する書物が幾多ある中で、クルマの絵本・児童書においても彼の人気は際立っている。私が所蔵するだけでも5冊。今回からそれらクルマノエホンの紹介を通して、“おやじ”の生涯や彼の哲学、そしてホンダの歴史を改めて見直し、今後の日本経済についても少し考えてみる機会にしたいと思う。まず『F・1おやじ-エンジンにいのちをかけた男・本田宗一郎の生涯』(高橋透・作、汐文社)を題材に、ホンダのF1初勝利までの道程について勉強する。

官僚と戦う本田宗一郎
官僚と戦う本田宗一郎:実際のお役人はこんな低姿勢じゃないのだけどね(『本田宗一郎 世界一速い車を作った男』より)

ホンダのF1参戦の背景を理解する上で、今から半世紀以上前の日本の経済政策を振り返らねばならない。1961年に当時の通産省(現経産省)から自動車行政の基本方針が示された。これが城山三郎著『官僚たちの夏』の題材にもなった後の特定産業振興法案、通称「特振法」案と呼ばれたものである。特振法によって、当時20社近く日本に存在した自動車会社を3社ぐらいにまとめて会社を大きくし、グローバルに力をつけさせようとしたのである[2]。当然4輪を作っていない会社は論外、自動車生産に新規参入できない。1961年に世界最高峰のモーターバイクレース、イギリス・マン島TTレースで初優勝をし、以降2輪の世界で頂点に立ったホンダが次に目指したのは4輪の生産。夢追い人本田宗一郎がこの政府の国策を面白く思うはずがない。今以上に官僚の権限が強かった時代に社長自らが官僚と徹底的に戦った。消極的政策で守りの役人と、自由に世界と戦うことで国産の技術力が向上すると主張する攻めの宗一郎。現代の経営者に官僚と喧嘩できる人材がどれくらいいるだろうか。私も通産省傘下の社団法人で3年働いたことがあるが、お上と呼ぶくらいだから民間企業が立てつくなんてとんでもない。本省の課長クラスに呼び出しを食らえば、カウンターパートは大企業でも役員クラス、少なくとも部長級以上が馳せ参じる。”おやじ”はそんな絶対服従の世界に殴り込みをかけた気骨のある人だった。

S500とT360
S500とT360(『F・1おやじ-エンジンにいのちをかけた男』より)

さてその官僚組織の厚い壁に“おやじ”は何としてもこの法律ができる前に自動車を作ってしまおうと考え、部下の中村良夫(初代ホンダF1監督、ホンダ元常務、特別顧問)に4輪開発を命じる。結局特振法は廃案になってしまうのだが、私の生まれた1962年に開催された第9回全日本自動車ショー(現在の東京モーターショー)で、ホンダは小型スポーツS360とS500、軽トラT360を出品。翌’63年にS500とT360を市販化した。

F1参戦発表
『F・1おやじ-エンジンにいのちをかけた男』より

ホンダが自動車市場に参入するというニュースは全世界のレース関係者に驚きを与えたとともに、必ず自動車レースにも挑戦するだろうと考えられた。そのことを確かめようと、外国の専門誌記者が本田宗一郎を訪ね、F1参戦の可能性を尋ねた。そこで彼は「かつて知られたどんなメーカーもできない性能のエンジンをのせたF1カーを1年以内に発表する」とあっさり答えてしまうのである。とはいえまだ4輪の開発は始まったばかりで4輪開発部隊は中村を含めてわずか20名そこそこ。そんな弱小体制でS500とT360の量産車開発とまだ図面すらないエンジンを載せて’64年のF1参戦を目指したレース車両開発を掛け持ちしなければならなかった。中村がマネージャ兼チーフエンジニアとして参加したホンダF1プロジェクトが実際に始動したのが’63年の1月末[3]。N-ONEとN BOXの立ち上げを今年に控え、さらに来年レースに出るF1マシンも含め技術者20名で全てを開発するようなものだ。PCやCADどころか電卓すらない時代にだよ。図面は全て手書き。恐るべしホンダ黎明期の開発陣。そして“おやじ”の決断力と経営のスピード、マシンもないのにF1に挑戦すると公言して自ら退路を断つ覚悟は、現代の多くのサラリーマン経営者が学ぶべきエピソードである。

RA271
RA271(『F・1おやじ-エンジンにいのちをかけた男』より)

降って湧いたような中村F1チームは、’63年中ごろにはレース用エンジンRA270Eを評価用シャシーRA270に搭載してテストを開始した(繰り返すが量産車開発も並行して進めながらである)。同年9月にはロータスと提携しエンジンを供給、’64年にロータス・ホンダのF1マシンがデビューする予定だった。ところが’64年の正月にロータスがホンダとの契約を反故にする。初陣ホンダはエンジンだけでなく、シャシーも一から作り出す必要に迫られた。そのわずか半年後、ホンダが全て自らの手で作り上げたF1マシンRA271が完成する。モーターサイクル用エンジンの延長線というコンセプトで開発されたRA271Eエンジンは、排気量1495cc、横置きV型の12気筒、12000回転で220馬力の高出力を生み出した。1気筒当たり4バルブのレイアウトは、他のどのメーカーも採用していなかった。V型8気筒が主流の1.5リッターで12気筒は多すぎるといわれたが、1気筒当たり125ccの排気量はバイク屋にとってはお手のものだった。車体も軽量化を図るためにアルミ合金モノコックを採用[3][4]。

HondaのGPデビュー戦、1964年ドイツGP
HondaのGPデビュー戦、1964年ドイツGP(RA271とロニー・バックナム)[8]

そして白の車体に日の丸を描きこんだホンダのF1マシンは’64年8月2日のドイツGP(シリーズ第6戦)でデビューする。ドライバーは無名の若手、アメリカ人のロニー・バックナム。最後尾の22番グリッドからの出走となった。一時は9位になるものの、トラブル続きでかろうじて13位で完走(本によってはリタイヤとの記述もあるが、[4]によれば完走扱いとある)。観戦した唯一の日本人ジャーナリスト小林彰太郎氏は「日本の車が、ここに並んでいると思うだけで、胸がいっぱいになった。」と語っている。

中村らは次戦のイタリアGPまでにマシンの改良を図る。アルミモノコック車体にも関わらず重量は525kgと規定最低重量より75kg重い。どんな部品もガチガチに頑丈で大きなものじゃないと我慢できない“おやじ”の拘りが影響していた(私が学生時代のホンダはペラッペラのボディの印象が強かったが…)。中村は燃料供給システムをカーブの立ち上がりに不利なキャブレター式から燃料噴射式への変更を指示。当初は当時のF1でよく使われていたルーカス製の燃料噴射装置を使う予定だったが、宗一郎からの「ホンダ独自のものを作れ」という命令で、やむなく勝ち目のない自社製を採用した[5]。後年中村が「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と語っていたように、両者の関係が良好でなかったことは有名な話[6]。東大航空出の理詰めでチームの勝ちに拘る中村と、自社の技術・製品でホンダが勝つことに拘った宗一郎との確執はこの当時からである。結果としてイタリアGP、続くアメリカGPでリタイアとなり、中村は最終戦メキシコGPの不参加を決定してシーズンを終えた。

F・1おやじ その1
RA272(『F・1おやじ-エンジンにいのちをかけた男』より)

中村には’65年シリーズに向けた課題や解決策は見えていたものの、やはり“おやじ”とのレースに対する考え方の溝は埋まらず、量産車開発に専念させる理由でF1チームのマネージャをはずされた。マシンは後継車RA272、エンジンRA272Eは13000回転で230馬力にUP。その強力なエンジンをもってしても、第4戦まではリタイア続きで6位が最高位。第5戦イギリスGPから中村にマネージャ復帰の要請があったが、“おやじ”に負けないくらい頑固な中村は固辞。しかし’66年シリーズからエンジン排気量のレギュレーションが3000ccに変更になるため、現行1500ccエンジンでの最後の戦いになるメキシコGPで中村はチーム監督復帰を申し出る。彼には勝算があった。メキシコは酸素が薄くなる高地であるため、どのチームも薄い空気の中で混合気をどう調整すればよいか苦戦していた。中村は戦前中島飛行機で戦闘機のエンジンを設計していた。飛行機は酸素の薄い上空で飛ぶ。この問題は中村にとって実に簡単なことだった[3]。

Honda初優勝
喜ぶおやじ2
来た・見た・勝った![9]

1965年10月24日、メキシコGP本戦。2列目3位のグリッドからスタートしたリッチー・ギンザーが操縦するホンダRA272は、ホームストレッチの加速で一気に首位に立つ。20周を終えた段階で2位に6.5秒差をつけていた。終盤ダン・ガーニーの操るブラバムのマシンが猛追、ギンザーのマシンと接近戦を繰り広げた。そして…、ギンザーのマシンは2.89秒差をつけて65周を首位のまま走り切った。中村はコースの電信局から、有名なカエサルの言葉に倣って少々キザな電報を東京の本社宛に打電した。
“Veni, Vidi, Vici(来た・見た・勝った!)”[3]

中村良夫
中村良夫[10]

なんだか主人公が中村良夫になってしまったが、ホンダは伝説のクルマだけでなく、伝説の社員も多い。ホンダの基本理念は『三つの喜び』と『人間尊重』。前者は「作って喜び、売って喜び、買って喜ぶ」こと。後者は「自律・平等・信頼」のこと[7]。つまり、人間尊重とは社員の個性を重視することに繋がり、ホンダには個性的な人材が多く輩出されたのだと思う。

N360ベストセラー
N360はベストセラーになったものの…(『F・1おやじ-エンジンにいのちをかけた男』より)

その後のレースでは“おやじ”の夢であった年間チャンピオンの夢は叶わず、1968年にホンダはF1休止宣言をする(初優勝以降の表彰台は1位1回、3位1回)。’67年に登場したホンダ初の量産乗用車N360(『ダットさん』にも登場する通称Nコロ)は大ベストセラーになった。’68年に資本金の増資を行ったホンダであったが、N360に続く量産車の用意ができていなかった。ホンダの経営は待ったなしの状態で、F1というゲームに熱中できるほど余裕はなかったのである[3]。加えて自動車の排気ガスによる公害が世界中で問題になっていた時期であり、低公害車の開発にも力を入れなければならなかった[2]。また’68年シリーズのフランスGPに持ち込まれた空冷エンジンを搭載したマシンで、ドライバーが炎上死する事故を起こしたことも活動休止に少なからず影響を与えたのだろう[3]。私がよく知るホンダF1の黄金期(第Ⅱ期)まではそれから20年近くを待つことになる。

[参考・引用]
[1]【特別寄稿】オグたんから見たホンダF1復帰劇、
http://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20130521_600196.html
[2]学習まんが人物館 本田宗一郎 世界一速い車を作った男、画・ひきの真二、原作・毛利甚八、小学館、1996
[3]本田宗一郎本伝 飛行機よりも速いクルマを作りたかった男、画・ひきの真二、原作・毛利甚八、小学館、1992
[4]独創的アイデアの横置きV12、Honda Racing Gallery、ホンダホームページ、
http://www.honda.co.jp/Racing/gallery/1964/01/
[5]「ひとりぼっちの風雲児」中村良夫が見た本田宗一郎の実像、気ままにトーク、2007年4月14日、スーパーセブン&サイドカーMANIAC、
http://www5a.biglobe.ne.jp/~side-7/hitori/40fuunji.htm
[6]中村良夫、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E8%89%AF%E5%A4%AB_(%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A)
[7]ホンダイノベーションの神髄、小林三郎、日経BP社、2012
[8]HondaのGPデビュー戦、1964年ドイツGP。RA271にロニー・バックナムが乗った。、ホンダF1ルーツ紀行、ホンダホームページ、
http://www.honda.co.jp/F1-sano/background/ra271/
[9]リッチー・ギンザー操るRA272は、1965年の最終戦メキシコGPで初優勝を決めた。ホンダF1ルーツ紀行、ホンダホームページ、
http://www.honda.co.jp/F1-sano/background/ra272/
[10]グランプリレースと学会活動での国際的貢献-中村良夫-、日本自動車殿堂、
http://www.jahfa.jp/jahfa5/pala/person2.htm
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Posted on 2013/05/30 Thu. 00:28 [edit]

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