拡大解釈

危険運転致死傷罪の総合的研究

先日、妻が怒り心頭で「この間の裁判の判決どう思う?父も理解に苦しむと言っているんだけど。」と私に意見を求めてきた。本ブログでも以前取り上げた『京都・亀岡無免許運転暴走による10名死傷事故』に対する京都地裁の判決が2月19日に下された件である。本裁判では、求刑懲役5~10年の不定期刑に対して5~8年の懲役刑が言い渡された。この求刑に対する2年の減刑について判決は、少年も反省しているとして「求刑通りとするには躊躇せざるを得ず、上限は8年が相当」とした[1]。この事故については当初から「危険運転致死傷罪」の判断が大きな議論となった。改めて専門家の意見を調べた中で、元東京地検特捜部副部長、弁護士、若狭勝氏による「亀岡事件はなぜ“危険運転”でないのか」(2012年7月27日付)という当局の司法判断についての投稿[2]が非常に興味深かったので全文引用させていただく。法律家というものは徹頭徹尾ロジカルに考える専門職、頭の良い人たちの集団だと思っていたが、実は必ずしもそうではなく、自分たちに都合の良いように論理構築する人たちの集団なのではないかと思ったのだ。

以下引用文(下線拙者による)。
『今年(2012年)4月23日、無免許運転の少年が、京都府亀岡市で集団登校中の児童ら10人を車ではねて死傷させる事件が発生した。先日、その事件の裁判が始まった。遺族らは、その少年が無免許運転であったことなどから危険運転致死傷罪による起訴を切望したが、検察は危険運転致死傷罪ではなく、自動車運転過失致死傷罪で起訴した。睡眠不足による居眠り運転も伴った本件につき、どうして危険運転といわないのかとの批判が多い。一般人の感覚と司法当局の判断とのギャップが著しい典型例である。
 なぜ、検察は、危険運転致死傷罪で起訴しなかったのか。本日は、その判断および今後の方向性について視界良好としたい。その読み解き鍵は、「拡大解釈という武器を与えることは危険、ゆえに速やかな法律改正を」である。
 検事の多くは、素朴な正義感を有し、残忍・悪質な事件には厳罰をもって臨みたいとの気持ちが強い。本件もできることなら危険運転致死傷罪で起訴したいと思ったに違いない。しかし、危険運転致死傷罪による起訴を断念したのは、条文の解釈に壁があったからである。つまり、それを適用できる場合の一つとして刑法が定める「進行を制御する技能を有しない走行」につき、これまでは「無免許運転だから直ちに認められるというものではなく、実質的に進行を制御する技能を有しない未熟運転をいう」との解釈が採られてきた。皮肉なことに、日常的に無免許運転を繰り返していれば、進行を制御する技能を有していたとされてきた。そのため、本件を危険運転致死傷罪で起訴しようとすると、従来の解釈を変更し、「無免許運転はすべからく進行を制御する技能を有しない」との拡大解釈が必要となる。
 ところが、一般的にこの拡大解釈は大変危険。処罰範囲を自由に変更できる拡大解釈という手段・武器を当局に与え過ぎると、例えば、昨日まで処罰されなかった行為が今日からは拡大解釈によって処罰できるということにもなりかねず、国民の利益を侵害する恐れがある。
 他方、遺族らの気持ちも痛いほど分かり、法律とのギャップがあることも確かである。とすれば早急に法律改正をすべきである。従前から悪質運転の代表例である「酒酔い・無免許・著しい速度超過」の3態様を「交通三悪」と呼んでいる。危険運転致死傷罪が適用できるケースとして、酒酔い運転と著しい速度違反の二つは既に盛り込まれているが、無免許運転は盛り込まれていない。危険な拡大解釈を防ぐ一方、被害者・遺族らの素朴な気持ちを法律でくむには、もはや法律改正しかない。』

私が引っかかったのは、若狭氏によると、危険運転の定義である「進行を制御する技能を有しない走行」というものは、「実質的に進行を制御する技能を有しない未熟運転をいう」と法解釈されていたこと。ゆえに無免許(免許不携帯ではない)にも関わらず進行を制御する技能を有していたとされる被告を危険運転致死傷罪に問うためには、従来の解釈を変更し、「無免許運転はすべからく進行を制御する技能を有しない」との拡大解釈が必要なのだという。これはつまるところ従来の「無免許運転でも進行を制御する技能を有する」という解釈が真であり、「無免許運転はすべからく進行を制御する技能を有しない」は拡大解釈だと言っている。私に言わせれば、前者こそが拡大解釈、否“誤”解釈であって、後者こそが真の解釈だと思うのだがいかがであろうか。

無免許でも運転技能を有すると認めることは、運転技能を有する資格を証明するはずの運転免許制度に何の意味もないと言っているのに等しい。免許制度を是とするならば「無免許運転はすべからく進行を制御する技能を有しない」が全うな法解釈だ。氏の言われるように「拡大解釈が危険」なのであれば、そもそも「無免許運転でも進行を制御する技能を有する」という“拡大(誤)”解釈こそが最も国民の利益を侵害している。従って本件については法律改正などする必要はない。法律をまともな倫理観に従って素直に読めば済むことだ。

今回の裁判は被告の居眠り運転も「危険運転」の争点になった。判決の日に車中でテレビのワイドショーを聴いていたときのこと。コメンテーターの法律家(弁護士?)が語った「法律家もいろいろなケースを想定するんです。(遊び呆けて徹夜した被告のケースとは違い)仕事の徹夜続き後の運転中、居眠りをした場合も同じように処罰してよいのかとか。」といったようなコメントを聞いて、私はこれが法律家の意見なのかと呆れてしまった。仕事であろうとなかろうと、徹夜した後に運転をすれば睡魔が襲う(=危険な運転状態になる)ことは誰もが容易に想像がつく。そのような場合は本来運転を控える、少なくとも休憩を取りながら運転すべきである。私は理由の如何を問わず、極度な寝不足を承知で運転する行為は危険運転とみなして良いと思う。

自戒も込めて言うと、法律家も含め、一般の自動車ユーザーは自動車を運転するという行為がどれだけリスクの高い危険作業なのか認識が甘いのではないかと思っている。約2トンの鉄の塊が時速40kmで移動するエネルギーの大きさ(時速10kmでも相当な量だ)と、それを大半が人間の目からの情報と4つのタイヤに委ね、たった1本のハンドルだけで制御する恐ろしさを知らな過ぎるのだ。学校でも科学的側面からの危険性をきちんと教えない。飛行機操縦や電車運転の有資格者のほとんどがプロの職業運転士なのに対して、自動車運転のそれは大半が職業ドライバーではないプライベートドライバーである。恐らくプロ(免許や資格を持つということは本来そういうことだ)という意識で運転する人は皆無だろう。自動車とは他に比べて非常に特殊性を持つ乗り物だということを改めて認識する必要がある。

若狭氏は法律の拡大解釈による検察の暴走を危惧されているが、それなら何のための裁判制度なのかと問いたい。司法、立法、行政が相互監視しあうのが三権分立ではないのか。万が一、行政の暴走があれば司法の場(裁判所)で正せばよい。もっとも、一票の格差を違憲“状態”などと訳のわからない逃げ口上を持ち出して非を正そうとしない最高裁判所なんて、本来の司法機能を果たしていないのだけれども。

今回若狭勝氏の投稿を引用したのは彼個人を批判するためではなく、彼ら法曹界の人々にとって恐らく“良識的“な意見の代表と捉えて引用させていただいた。法律家は国民の利益ではなく、いったい何を守ろうとしているのか。彼らの世間常識とズレた解釈判断が、私には結局理解できなかった。あの分厚い六法全書が市民感覚との乖離を象徴しているようにも見える。

以上のような意見を交わして妻も同感。時にはこんなお堅い話で夫婦のコミュニケーションを図っている我が家である。

六法全書

[参考・引用]
[1]運転少年に懲役5~8年 亀岡登校事故、京都新聞、2013年2月19日、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130219-00000022-kyt-l26
[2]亀岡事件はなぜ“危険運転”でないのか、zakzak、2012年7月27日、
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120727/dms1207270714002-n1.htm

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(2005/11)
交通法科学研究会

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[ 2013/02/27 22:44 ] bookshelves/本棚 | TB(0) | CM(0)

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