ハッスル!エルくん!

ハッスル!エルくん!

本日紹介する絵本はかなりの変化球。ついにクルマノエホンも電子書籍に広がりを見せた。これも時代の流れなのであろう。ハッスル!エルくん!(とみなが哲也・作、mixPaper)は無料で配信されている絵本で、主人公は自動車の衝突実験に使われるダミー人形エル。クルマとは直接関係のない題材であるが、ダミー人形(Crash test dummies)は現代のクルマを開発する上で必要不可欠なツールである。

自動車会社の研究所で、何百回もの衝突実験に使われたエルくんことダミー人形L-3。ボロボロになったエルくんは、とうとうお蔵入りとなってしまった。捨てられるかもしれないと思ったエルくんは、夜になると研究所を抜け出してしまった。外の世界に出たエルくんは、パン屋さんや大工、消防士などの仕事をするがどれもうまくできない。ある日、身を挺して自動車事故から女の子を救ったエルくんは思わぬところからスカウトされる。宇宙センターに雇われたエルくん、宇宙空間での活躍の場を得たのだった。なかなか楽しいストーリーと絵で、アナログ派の私としては、紙の書籍化を是非望みたいところだ。



さて、唐突ですが高校の物理の復習。速度V(m/s)で走っている自動車が壁に衝突したとする。そのとき、体重M(kg)の乗員の衝撃力はどれくらいになるのであろうか。自動車の前面がΔX(m)潰れて停止したとしよう(壁は動かないものとする)。走っている状態(V)から停止する(V=0)までの運動エネルギーの変化量はMV2/2。これは乗員にかかる力F(N)と移動距離ΔX(m)の積(仕事量)に等しいから、
F・ΔX=MV2/2・・・(1)
Fは乗員の質量M(kg)と減速加速度α(m/s2)の積だから、
Mα・ΔX=MV2/2・・・(2)
したがって、
α=V2/2ΔX・・・(3)
例えば衝突直前の自動車の速度Vが50(km/h)、衝突による車体の潰れ量ΔXが1(m)だったとすると、50km/h≒14m/sだから、
α=142/2=98(m/s2
重力加速度1G=9.8 m/s2なので10Gの力が乗員にかかる計算になる。つまり体重60kgなら10倍の600kgもの衝撃力が加わる。時速100kmで衝突すれば40G、2.4トンのすさまじい衝撃力だ。余談であるが、式(3)をみれば潰れ量が大きいほど、衝突時の衝撃力(加速度)を減らせることがわかる。これが車体のクラッシャブルゾーンといわれる機能で、自動車(移動体)の車体はあえて潰れやすくして衝撃を吸収している訳だ。勿論、乗員の生存空間は残しておかなければならない。

乗員がMkgの一様な剛体ならば上記のように単純な運動力学で考察できる。ところが実際の人間は頭部のような重い剛体から、内臓や筋肉といった柔らかい組織、脊柱のようなフレキシブルなジョイントなど、複雑な要素から構成されるので、その挙動の理解は単純ではない。現実に即した衝突現象、すなわち様々な衝突事象において乗員の各部位にどれくらいの衝撃力が加わるのかを解明できなければ、その衝撃を適切に抑えるための構造や装置を開発することができない。

追突のボランティア実験(怖っ!)[2]
追突のボランティア実験(怖っ!)[2]

例えば追突事故の場合。後方から追突を受けると体幹は車体とともに前方へ加速する。しかし、重い頭部は慣性の法則にしたがってその位置に止まろうとする。だるま落としである。しかも、頭部はジョイントである頚椎でつながっているので、頚椎は反動で一旦後方に屈曲、車体が停止した後に、今度は前方に伸展するといった複雑な挙動をとる。このような頚椎への過度の負荷によって頚椎捻挫、いわゆる鞭打ち症を発症することになる[1]。この捻挫を低減するために、ヘッドレストが頭部の屈曲を押さえ、さらにより効果を高めるために衝突時にヘッドレストが前方へ移動するようなアクティブヘッドレストといった装置も開発されている。だからヘッドレストを後頭部より下の位置に下ろしたままだと、追突時に何も役に立たないのだ。低速度での追突時における鞭打ち症の発生メカニズム解明などには、実際のボランティア被験者を使った人体実験で現実的なデータが取得されているが[2]、前記のような時速50kmや100kmなどの衝突を再現するのに人体実験を行うわけにはいかない。ここで登場するのが人間の身代わりになってくれるダミー人形君である。

Sierra Sam
Sierra Sam

ダミー人形の出発点は、軍事技術からである。「シエラ・サム(Sierra Sam)」と呼ばれたその人形は、1949年ジェット戦闘機の射出座席開発のために考案された。ダミー人形の精度を同定するために、研究者自ら耐G試験を受けたり、死体を使った実験も行われている[3]。

世界初の自動車用ダミー人形は、Alderson Research Laboratories社がGMとFordのために1966年に開発した“VIP-50”シリーズ。1967年には、「シエラ・サム」を開発したSierra Engineering社が“Sierra Stan”を開発するも、これらのダミー人形に満足しなかったGMの研究者が両モデルのいいとこ取りをして“Hybrid-Ⅰ”を完成させた。1968年のことだ。これは現在、世界の自動車衝突基準や日米欧のNCAP(公的な自動車衝突安全テスト)を含めて最も広く利用されているダミー人形“Hybrid-Ⅲ”の原型となったモデルである。その後“Hybrid-Ⅱ”を経て(1972)、最新の“Hybrid-Ⅲ”に至る(1976)[3][4]。

Hybrid-III family
Hybrid-III family

“Hybrid-Ⅲ”にはAM50(米国成人男子の平均体格)を中心に、大きい体格(AM95:米国成人男性の小さい方から95%目)から小さい体格(AF05:米国成人女性の小さい方から5%目)、6ヶ月の乳幼児から10歳児まで様々なサイズが準備されている。一度は経営破たんしたGM、トヨタに比べればたいした企業ではないと思う日本人も多いと思うが、これらダミー人形の研究開発といった直接の利益につながらない基礎研究の地道な継続は、全ての自動車メーカーや自動車ユーザーが尊敬の念をもって賞賛すべき功績である。1980年代後半からは、より人体を忠実再現する次世代ダミーの開発が進められ、2003年にNHTSA(米国運輸省高速道路交通安全局:自動車や運転者の安全を監視する米国運輸省の部局)を中心に“THOR”シリーズが開発された[5]。

PolarⅡを使った衝突実験[8]
PolarⅡを使った衝突実験[8]

人体とほぼ整合性のとれているダミー人形とはいえ、複雑な事故事象において人体をダミー人形で完全に模擬することは非常に難しい。したがってダミー人形は、前面衝突用、側面衝突用、後面衝突用、歩行者保護評価用など事故事象別に開発されている。“Hybrid-Ⅲ”や“THOR”は前面衝突用である。側突衝突用には“SID”、前出の鞭打ち症に関係する後面衝突用には、脊椎を細かく模擬した“BioRID-Ⅱ“などのダミーがある。以上は自動車の乗員(着座姿勢)を模擬したダミーであるが、近年多発する歩行者事故の低減を目的に、直立姿勢のダミー開発も進められている。”PolarⅡ“と呼ばれるそのダミーは、”THOR“ダミーをベースに本田技術研究所、日本自動車研究所(JARI)、GESAC社で共同開発され、今後の法規化のための貴重なデータを提供することになるだろう[5]。

THUMSによる追突時の挙動解析
THUMSによる追突時の挙動解析

上記のようなダミー人形は、頭部や胸部の傷害値といった法規にしたがって(あるいは今後の法規化を想定して)作られた人形であるが、各自動車メーカーは、法規の存在しない部分の傷害低減を目標に日々研究開発を進めている。その最前線が、コンピュータによる数値解析の世界だ。トヨタのTHUMS(Total HUman Model for Safety)は、呼吸器や循環器系などへの損傷を減らす目的で開発された数値シミュレーションツールで、“Hybrid-Ⅲ”では検証不可能な筋肉、靭帯、内臓等の損傷をある程度調べられる。まさに全身を完全に再現した人体モデルだ。当然、この解析モデルの同定には詳細な事故調査データや、死体などを使った人体各部の寸法や強度などの実験データが必要なのだが、これらのデータは主に欧米から提供されているのが実態である[3]。

技術の安全性に100%はあり得ない。確率論に基づくのがエンジニアリングの世界だからだ。だからこそ安全設計の指標を法規化し、コンプライアンスをチェックすることで、何か問題があればその原因究明と対策を講じる。また常にあらゆる事故の可能性を“想定”し、たとえ1%の事故の可能性であっても、その影響が甚大であれば、新しい対策やルール作りに繋げる。このようなPDCAサイクルをきちんと回すことが大事なのである。自動車業界におけるダミー人形も人体モデルも、このサイクルの中に完全に組み込まれている。事故に“想定外”はない。リアルワールド=現実に起こりうるものが全てである。PDCAを正しく回さなかった結果としての原発事故は、あらゆる産業の安全工学に対する信用を失墜させた意味で産官学ともに罪が重い。“想定外”など想像力の欠如を露呈してだけでエンジニアにとっては最も恥ずべき発言だし、“絶対に安全”に至っては思い上がりも甚だしい(そう言ってTVに出ていた厚顔無恥な学者や技術者がたくさんいましたね)。

生身の人間ならば耐えられないような激しい衝突実験を何百回と繰り返されてきたエルくん。こういったダミー人形の裏の事情を勉強して、本書(書物と呼べるのだろうか?)を読み直すと、また見方が変ってくるかもしれない。以下で実際のエルくんの仕事ぶりを見てみよう。後席シートベルトを着用していないとこうなります。



ところで最後は宇宙へ行ったエルくんだが、現実の世界でも宇宙に飛び立った「人形」が存在する。今年の2月に最後の打ち上げとなったスペースシャトル「ディスカバリー」に積載された、人型ロボット“Robonaut2(R2)”がそれだ。GMとNASAが共同開発したもので、人間さながらの手先の器用さを持つとのこと。R2は上半身だけの姿だが、今後開発される改良版は宇宙空間での歩行も可能らしい。現在は国際宇宙ステーションISSに滞在中(ということは直にISSに長期滞在することになる古川宇宙飛行士との共同作業も見られるかも)で、半永久的にステーションに残って、日常的な作業やタスクを行うらしい[6]。まさに最後のエルくんの勇姿そのものであるが、ダミー人形エルくんのモデルともいえる“Hybrit-Ⅲ”や“Robonaut2”のいずれもが、偉大な自動車メーカーGMが開発したものとは大変興味深い。

原発事故の処理にエルくんが居てくれればなあ・・・。

R2と宇宙飛行士@ISS
R2と宇宙飛行士@ISS

[参考・引用]
[1]頚・腰部捻挫周辺の傷病名と後遺障害、交通事故外傷と後遺障害、交通事故100番、
http://www.jiko110.com/contents/gaisyou/keiyoubunennza/index.php?pid=3001
[2]衝突安全 傷害メカニズム、日本自動車研究所ホームページ、
http://www.jari.or.jp/research-project/research-department/safety-research/injury-crash/
[3]特集「安全技術の現在」衝突から人を守るテクノロジー、Motor Fan illustrated、Vol.7、2007
[4]The History of Crash Test Dummies、Wikipedia、
http://inventors.about.com/od/sstartinventions/a/SierraSam.htm
[5]衝突基準とダミー、p181-186、自動車技術ハンドブック、[7]試験・評価(車両)編、2006改訂版
[6]R2 ロボット、宇宙ステーションに到着…GMとNASAの共同開発、Response、2011年2月28日、
http://response.jp/article/2011/02/28/152464.html
[7]むち打ちを防ぐシートぶつかる前の対策へ、日経Automotive Technology、2007年7月号、
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/HONSHI/20070521/132811/
[8]衝突時の歩行者の衝撃を低減する「持ち上がりフード」を新開発、2004年8月24日、ホンダホームページ、http://www.honda.co.jp/safety/news/car-news-list/040826/
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リンクありがとうございました!

相互リンク、とても嬉しいです。
今後ともよろしくお願いします。
このサイト、初めて知りました。
ページをめくれる感じがいいですね☆
[ 2011/05/06 15:54 ] [ 編集 ]

こちらこそよろしくお願いします。
ダミー人形を絵本にする発想がすごい!と思いましたが、こんなマニアックな題材はなかなか書籍化にはならないでしょうね。
私はまだ紙の本に愛着がありますが、こういう形態もありだと思いました。なかなかよくできてきます。
そのうち絵本はみんなタブレット端末で読むことになるんでしょうか。
[ 2011/05/06 17:11 ] [ 編集 ]

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