RECARO

ベントンのシート」を読んで自動車シートのことを少し調べたり、考えたりしてみた。日本の消費者はこのシート、特にドライバーズシートに対して非常に関心が薄いように思える。日本ではシートと言えば、やれフルフラットがいいだの、シートアレンジは種類が多い方がいいだの、まともに座れない3rdシートが必要だの、まあ私にしてみればどうでもいいようなことにしか興味が持たれない。お父さんが長時間運転するシートの性能などどうでもいいのだ。また、チャイルドシートに子供をろくに座らせない親もいるくらいだから全く困ったものだ。もともと日本では”座る”文化の日が浅いことも理由だと思うが、日本独自に進化しガラパゴス化した、ミニバン市場の悪影響なのかもしれない。

私は椎間板ヘルニア持ちなので、シートのことでは自ずと「疲れない、腰が痛くならない」という座り心地へ関心が向いてしまう。「ベントンのシート」ならぬベントレーのシートには座ったこともなければ、触ったことすらもないので言及しようがないが、先代のルノー・カングーのシートは、私にとってはすこぶる快適なシートだったし、このシートに座れなくなることを考えると車を手放すことに躊躇があった。現在の日産エクストレイルも及第点ではあると思うが、やはりカングーシートには敵わない。座る文化の長い西洋、特にヨーロッパ車のシートには一日の長があるなあと感じさせられる。これには西洋文化における椅子の特殊性ということがあげられよう。

ベントレーのシート(2011 Bentley Mulsanne)
ベントレーのシート(2011 Bentley Mulsanne)

毎日椅子に座るという生活様式は、ヨーロッパ文化のみで育ったものである。日本を含む地球上の他の文化圏では、圧倒的に床あるいはマット、クッション、台に腰掛ける、跪く、胡坐をかくなどしてきた。このことは建築物にも影響が現れていて、ヨーロッパ建築の通常の窓の高さは、椅子に座った視点を基準にして設計されている。西洋においてはキリスト教文化の浸透とともに、遊牧民は農耕を基盤とする定住民に駆逐されていった。椅子に座るということは、この遊牧民から定住民に移行する一つの進化の証であり終焉であった。それは安定であり支配を意味する。作家のエリアス・カネッティは『人間は椅子に座ることに固執している。座ることで椅子は権力を表わす。4本脚の椅子を4本足の動物に喩えて、椅子に座ることは支配することを表わしている。』とも言っている[1]。英語では指導者のことを“chairman”というしね。このことが西洋における椅子の常識とするならば、ベントレーのように贅を尽くした「支配階級」のための後席シートは、最も椅子の特質を体現しているといえよう。被支配者である「労働者階級」が運転するためのドライバーズシートなどは、本来は椅子に値しないのかもしれない。とはいえ、自動車を運転するのに欠かせないシートは、やはり自動車文化を創造したヨーロッパにおいては拘りの対象となった。

自動車用シートの重要性を世に気づかせたのは「レカロ」の功績が大きいだろう。ドライバーのために医学的、人間工学的見地から科学されたシート。自動車におけるマン・マシン・インターフェースの最たるものが、乗員が最も長く接するシートである。特に自動車を操るドライバーが座るシートの良し悪しは、運転者の快適性のみならず、そのクルマの「走り」にも大きく影響する。そして医学的にみて「座る」行為は身体、特に腰への負担を与えると理解されている。Nachemsonによれば、まっすぐに立った姿勢での背骨の椎間板内圧を100とすれば、座る姿勢では140、座って前かがみになる場合は185なのだそうだ(ちなみに仰向けに寝るのは25)[2]。本来座ることは脚への筋負担軽減にはなるが、腰にとってはよろしくない姿勢なのである。よって、ドイツ国内における6割以上のドライバーが車の運転に起因した腰痛を訴えているのだそうだ[3]。

自動車の世界では有名なこのレカロは、ドイツの自動車・鉄道及び航空機関連製品製造企業カイパー・レカロ社(Keiper Recaro GmbH&Co.)のシートだった。「だった」と書いたのは、年明け早々の4日、アメリカの自動車用内装システム・電子機器の世界的大手サプライヤー、ジョンソンコントロールズ社(Johnson Controls Inc.)が、カイパー・レカロの自動車シート事業を買収したからだ[4]。個人的には驚いたニュースだったが、自動車シートサプライヤーとしても有名な同社はこれで名実ともに世界最大の自動車シートメーカーとなった。

レカロ アイデアル・シート(IdealSeat)
レカロ アイデアル・シート(IdealSeat)

「レカロ」のブランドは無くならないと思うので、レカロの歴史を少し振り返ってみる。レカロ社は1906年に独・シュツットガルトに設立されたロイター・カロッセリー社が母体である。同社は馬車の製造工場であったが、新しい時代の主役となる自動車の車体を製造し始めた。1949年にはフェルディナント・ポルシェの息子フェリーから依頼され、ポルシェ356のシャーシーと車体の製造を開始する。1963年にシャーシー事業の大半をポルシェに売却して、Reutter Carosserieの頭文字を取ってRECARO社が設立される(へぇー)。その後はポルシェ用のシートを製造しながら、独自の自動車用シートを開発する。1965年のフランクフルトショーで参考出品したシートが現在のレカロシートの原型となった。一方のカイパー社は、1920年に自動車用幌とドアヒンジの製造を開始したフリッツ・カイパー社が母体。1938年にカイパーが特許取得したシートのリクライニング機構がドイツの全自動車メーカーに供給された。1969年にカイパー社がレカロ社を吸収合併し、'65年のレカロ・フランクフルトショーモデルに人間工学的知見を盛り込んだ「アイデアル・シート」を1973年に発表。レカロ・ブランドを不動のものとした。以降は整形外科医も開発スタッフに加わって、いかにも合理的なドイツらしく医学的・人間工学的なアプローチでシートの研究開発を続けている[3][5]。

レカロブランドは、VWブランドのように熱狂的な崇拝者を抱える。もうずいぶん昔になるが、私もレカロシートで長時間運転してみたことがある。結論は「私には合わない」だった。確かに腰への負担は良好だったように記憶しているが肩甲骨より上部に痛みを訴えた。最新のレカロならまた評価も変わるかもしれないが、人間工学は機械ではなく標準偏差の大きい人間を対象とする学問。誤解を恐れずに言えば平均最適化工学である。体格の大きいドイツ人の平均値をベースに設計すると、小柄な日本人には合わないのかもしれない。それに私はレカロも含め、ドイツ人気質にも似たあのドイツ車シートのお堅いクッションが好きではない。VWのシートもそうであるが、面というより点や線で身体を支えているような感覚(物理的には面で支えているはずだが、あくまで感覚です)。個人的にはルノーシートに代表されるように、最初の座り心地は柔らかくふわっと身体を包み込むような感覚があるのだが、身体がシートになじむときちんと要所を支持してくれるフランス車シートが好みだ。現在乗っているエクストレイルもこれに近い。これもまた人間工学的にいえば個々人の嗜好性、あるいは感性なのだ。

脊柱のS字カーブ
脊柱のS字カーブ

自動車用シートに関わらず正しい椅子の座り方としては、「立つように座ること」といわれてきた。この根拠は先のNachemsonの知見にもあるように立位姿勢における椎間板内圧が最も少ないからだ。人間が直立したときの姿勢を真横からみると、脊柱(背骨)の形状はちょうどS字のラインを描いている。このことから、椅子に座った姿勢でもこの脊柱の「S字カーブ」を保つこと(上図)がよいと長い間呪文のように唱えられてきた。レカロも基本的にはこの考え方に基づいている[6]。でも最近の研究では、どうもそうでもないらしい。

立位のときの背骨のS字カーブと座ったときの変化
立位のときの背骨のS字カーブと座ったときの変化

日本の人間工学の大家でおられる早稲田大学名誉教授の野呂彰男氏によれば、通常の椅子に座ると脊柱を支えている骨盤が椅子の座面に乗り、大腿部は前に出る。そうすると骨盤は後方に回転せざるを得なくなり後転する。骨盤が後転すると同時に連結している脊柱も後方に引っ張られ、S字カーブが解消される。単純なメカニズムのようだが解剖学的には座位姿勢で脊柱のS字カーブを実現することは困難なのだという[7]。確かに力ずくで骨盤を起こして腰椎部を前方に支持してやればS字形状もできないことはないが、骨盤と大腿部を挟む角度が小さくなることで腹部が圧迫され、垂直方向に自重がかかるので坐骨結節に圧力が集中してしまう。また、脊柱が前方に押し出されることで、次第に質量の大きい頭部や胸郭によって身体全体が前傾してしまうであろう。私は今、自宅のバランスチェア(rybo社)という椅子に座ってこの原稿を書いているのだが、この椅子には背もたれはなく、大腿部を斜めに下ろして足を後ろに引く(中腰で正座をしているような)姿勢なので、きちんと座ればほとんど立位姿勢に近い状態でS字カーブを保つことができる[8]。しかしこれとて背中を支えるものがない分、疲れてくると次第に背中が丸くなるので、気づいたときにまたきちんと背筋を伸ばすようにしている。

バランスチェアの姿勢
バランスチェアの姿勢

それでは結局どんな座位姿勢がよいのか。野呂先生は「健康な人は楽な姿勢を取ってください」と禅問答のような回答をされる。ただこれを裏付けるように、2009年自動車技術会論文賞[9]を受賞した文献[10]によれば、自由な形に可変できる椅子で、被験者に最も快適な(楽な)姿勢をとらせた場合、その姿勢形状は中立姿勢に近いものになるそうだ。中立姿勢(neutral body posture)とはNASAが提唱した姿勢概念のことで、無重量状態で形成される姿勢、つまり自重(重力)の負荷から解放されて受動的な負荷の最小の状態で釣り合った人間の原姿勢であるといえる。したがって生体内負荷が最も少ない姿勢状態であると仮定した。実際に生体力学的なシミュレーション解析でも妥当な結果が得られている。その形状は、一般的な運転姿勢より骨盤が後転し、全体的にやや背中が丸まっている。これは明らかに念仏のように唱えられていたS字カーブ理論とは考えを異にする。この新姿勢と視界や操作などの運転の必要条件を考慮すれば、シートバックを胸郭付近で2分割した中折れシートが合理的構造なのだそうだ。最近発売された日産エルグランドの2ndシートには、この中折れ機構が組み込まれた「コンフォタブル・キャプテンシート」が採用されている。また、マツダの研究例によれば、「良い自動車シート」の評価につながる重要な支持ポイントは「胸郭上部」「背中の上部」「腰椎下部」の3点と結論づけているが[11]、別なアプローチで日産と似たようなことを言っているのかもしれない。

中立姿勢[14]
中立姿勢[14]

医学(整形外科)の世界でも、良い姿勢とは中等度の前彎姿勢(S字カーブ)を保ち、わずかな屈曲(後彎)すら避けることがまだ主流のようだが、中等度の屈曲にも利点があるといった最新の文献もあるようだ[12]。この引用先の医師のステートメントにあるように「よい姿勢の定義は容易ではない」といったところが専門家の本音、脊椎研究、姿勢研究の難しさをよく示している。腰痛の根本原因についても諸説ある。私も治療に整形外科やカイロプラクティックを利用したが、お互いに違うことを言っていて、結局どちらも決定的な治療法には至らなかった。今でも騙し騙し生活している。でも長時間通勤にも関わらずカングーシートに乗り始めて大分楽になったことを考えると、シートの良し悪しが非常に重要であることが改めてわかった。上記で紹介した事例のように自動車シートも着実に進歩はしているが、良い自動車シートの研究開発はまだ発展途上。エクストレイルのシートでまた腰痛が悪化しないことを祈ろう。まあ座る行為そのものが、背骨に負担を与えることは確かなので、長時間運転する場合には、まめに休息をとって降車する、身体を動かす、これが一番である。

今回は自分の持病にも深く関わることなのでシートと疲労を中心に長々と書いてしまったが、自動車シートとは路面からの振動のダンパー(減衰器)でもあり、シート座面は乗員に対するダイレクトな振動入力源となるので、その性能は乗り心地にも多大な影響を与える。ベントレーのシートであればどんな悪路でもお尻がゴツゴツすることなどあってはならないだろう。またヘッドレストやシートベルトなど、安全装置としての役割もシートは担っている。

コンフォタブルキャプテンシート(日産エルグランド)
コンフォタブルキャプテンシート(日産エルグランド)

勿論、「ベントンのシート」のようにおもてなしとしての座席も、最近では後席でモバイル機器を使って仕事ができるような動く書斎(椅子)としての機能も求められる。冒頭では否定したものの、基本(運転席)をしっかり作ってくれれば、長旅を楽しめるようなエンターテイメント性や、リラクゼーションを享受できるような座席の機能もあれば便利だ。先日、日産ディーラーでそのエルグランド2ndシートに座ってきた。中折れ機構は身体を自然にホールドしてくれるし、ふくらはぎを支えるオットマンは気持ちよい。人間の生理特性に基づいて設計されたというシートヒーターも付いていてもう至れり尽くせりである[13]。ベントレーのシートに求められる豪華さはまた違うのかもしれないが(そもそもこんな巨大なシートは3BOX車に載らない)、これが日本流究極の椅子の姿なのだろう。エルグランドやアルファード的な“高級車”はあまり好きではないけれど、たまにはこのような後席でゆったりと通勤したいものだ(一生無理だな)。

クルマの中でこれほど多機能を求められる部品は、シートにおいて他にはないのではないだろうか。自動車シート“奥深し”である。

[参考・引用]
[1]座ることの文化的意味。、アレクサンダー・フォン・ヴェゲザク、マティオ・クリース共著、p29-49、椅子の研究①、ワールドフォトプレス
[2]Nachemson AL: The lumbar spine, the orthopaedic challenge.、Spine 1:1、p59-71、1976
[3]レカロの研究、p51-56、椅子の研究①、ワールドフォトプレス
[4]ジョンソンコントロールズがカイパーとレカロの自動車用シート事業を買収へ、BuisnessWire、2011年1月4日、
http://www.businesswire.com/news/home/20110104005798/ja/
[5]NSXのRECARO、その真実。、NSX MUSUEM、NSX Press vol.21、1998年3月、
http://www.honda.co.jp/NSX/nsx-press/press21/recaro/recaro.html
[6]レカロシートは疲れない!レカロの人間工学、クラブレカロ、
http://www.club-recaro.jp/
[7]「あなたのいすは大丈夫?」 体に良い座り方、いす選びのポイント、荒井亜子、@IT自分戦略研究所、2007年9月21日、
http://jibun.atmarkit.co.jp/llife01/special/ergo/ergo01.html
[8]バランスチェア、RyboHouse、
http://rybo.co.jp/SHOP/142.html
[9]第59回自動車技術会賞、
http://www.jsae.or.jp/09award/jigikaisho/pdf/shosai_59.pdf
[10]平尾ら、生体力学的負荷に着目した疲労低減運転姿勢の開発、自動車技術会学術講演会前刷集、Vol.100-06、p5-10、2006
[11]良いシートに必要な3つの支持ポイントは「胸郭上部」「背中の上部」「腰椎下部」、牧野茂雄、特集「座」のテクノロジー、MotorFan、Vol.29、p38-41
[12]よい姿勢の定義は容易ではない、加茂整形外科医院ホームページ、
http://www.tvk.ne.jp/~junkamo/new_page_444.htm
[13]日産「2010年度 先進技術説明会」リポート【第2回:ライフ・オン・ボード】 シートの快適性を格段に向上させた2つの技術を紹介、小林 隆、CarWatch、2010年7月29日
http://car.watch.impress.co.jp/docs/news/20100729_383980.html
[14]Mount et al.、Evaluation of Neutral Body Posture on Shuttle Mission STS-57(SPACEHAB-1)、NASA-TM-2003-104805、p2、2003、
http://ston.jsc.nasa.gov/collections/TRS/_techrep/TM-2003-104805revA.pdf
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