稀少本「ラム流体力学」(日本語版)

もうちょっと前になるが、ネットオークションで流体力学の名著、ラム(Sir Horace Lamb)の「流体力学(Hydrodynamics)」という本の原書(第6版)を購入した。私が大学で学んだ(かじった)圧縮性流体の問題や、境界層、乱流理論があまり触れられていない流体力学の古典なのであるが、日本語の教科書でお世話になった今井功大先生やその他流体力学の大家の方々が、必ず手元に置いたバイブルのような本らしい。

Sir Horace Lamb
Sir Horace Lamb

勿論この本は、前述の今井先生らによって名訳書が出版されているのだが、現在は絶版、古書であっても何万円とするらしい。それが原書で英世さん1枚で手に入ったのだから、ありがたい。流体力学なんて仕事でも全く使わないし、原書なんて読まないだろうと思いつつも、歳をとって時間に余裕が出てきたら、頭の体操がてら英語と古典に挑戦してみようと手に入れたものである。その前に、完全に錆付いた算術の勉強をしなおさなければならないのだが。

手に入れたLambの原書
手に入れたLambの原書

一昨年、日本人のノーベル賞受賞で大いに世論が盛り上がっていた頃に、科学技術の世界では不利である非英語圏、特にアジアの中で、自然科学系ノーベル賞受賞者が日本人に突出しているのはなぜか?(南部さんのような米国籍などを含めても、インド、中国系よりも自然科学分野で日系は13人と最も多い)といった主旨の記事を読んだ。

それは韓国日報の記事[1]で、『日本がノーベル賞を取れるのは自国語で深く思考できるから。日本が基礎科学で強いのは、日本語だけで高等教育を受けられること』を挙げている。『素粒子論のような最先端の基礎科学研究は英語の論文を読んでいるだけでは駄目で、“深みがあり独創的な思考が重要”だが、それを支えるのは母国語ベースの思考だ。』と分析している。確かに日本においては、最新の海外の科学技術専門書や、文学書などはすぐに日本語の翻訳が出版されることが多い。原子、分子、素粒子なんて新しく難しい概念をすぐに日本語にうまく翻訳してしまうしね。勿論、「中間子」は日本発。このブログのテーマである絵本でも、翻訳本は非常にたくさんあり、私も重宝している。

余談だが、『米IBMがvirtual memoryを発表した時、日本IBMが仮想記憶と翻訳しました。virtualの意味は「事実上の」「実質的」ですから、virtual memoryとは「本来のメモリーではないが事実上メモリーとして使える技術」を指します。ところが、仮想記憶と訳したため、実体がない想像上のメモリーという印象を与えてしまい、しかもコンピュータの世界でvirtualが出て来ると必ず仮想と訳されるようになりました。』という記事[2]を最近読んだ。つくづく、本質を伝える翻訳の難しさを痛感させられた。とはいえ、ラムの流体力学なんて名著を日本語で読めるのはありがたいことなんだけど、諭吉さんが何枚もないと買えないというのは出版業界の由々しき問題である。

さて、日本人のノーベル賞が多いといっても、それはアジアの中での相対比較であって、欧米に比べると圧倒的に少ないし、ノーベル賞は所詮英語圏、特に欧米偏重の賞だと言われていても、客観的にみて世界に影響を与えるような日本発の大発見や大発明はまだまだ少ない。

ラフカディオ・ハーン 楊逸 シリン・ネザマフィ
(左)ラフカディオ・ハーン(中)楊逸(右)シリン・ネザマフィ

これは、思想や文学、音楽、映画などの芸術、スポーツなどの世界でも同じである。私が思うに、それは各々の文化の担い手が、まだ日本生まれの日本人に限定されているからではないだろうか。つまり日本流の既存のフレームワークからなかなか逸脱できないのがその理由だ。私は、日本の文化が世界に多大な影響力を及ぼすためには、外国人がキーになると考えている。しかも、日本で生まれ育ち、あるいは定住し、日本語や日本文化を感覚的に理解できる外国人。ただし、外国人としてのアイデンティティや思考法も兼ね備える、バイリンガルやトリリンガルな人たち。例えば、古くはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、最近では日本語で作家活動を行っている楊逸さん(芥川賞受賞者)やシリン・ネザマフィさん(文學界新人賞)のような人財がそれに当てはまるだろう。

日本語や日本文化は、世界的にみても非常にユニークな存在である。彼らのようなタイプの人間は、外国文化を背景に日本的思考を換骨奪胎した新しい形の日本人として、既存の日本人の“型”に囚われない発想での文化や科学技術を創造する可能性をもっている。また、彼らは日本で生まれた文化や技術を世界に情報発信・翻訳する、架け橋としての役割を担うのにも好都合だ。ガラパゴス化しないためにも、極めて重要な存在になるのではないか。

いにしえの日本には、大陸から多くの渡来人がやってきて、日本に大陸文化を伝えた。彼らは日本に定住、帰化し、日本人となって、彼の地で新しい文化を定着させた。それが当たり前の時代が古代日本にはあった。その外国文化は日本古来の文化と融合し、いまや世界に冠たる新しい日本文化を創造した。現在ではその多くが日本の伝統文化となっている。もともと日本は多様性(ダイバーシティ)を受け入れる民族なのだ。その柔軟性が、再び現在の日本文化を世界に通じるジャパニーズカルチャーにステップアップさせるために必要だと思う。

少子高齢化大いに結構。人口が少なくなる分、外国からの移民は個人的にはウェルカムだ。純潔主義を守ろうとするネガティブなナショナリズムは不要だ。歴史を振り返れば、DNAレベルで純粋な日本人がどれだけいるのかも疑わしい。日本的思考や文化が受け継がれていけばよい。古き良き日本を知るお年寄りたちが、彼らに日本語と日本文化を伝授する。勿論、不良外国人には来てもらいたくないが、特に文化・技術の指導者やクリエーターはどんどん受け入れるべきだ(もはや、政治家もこのような新しいタイプの“日本人”の方がよいのかもしれない)。鍋はいろいろな具を入れた方が美味しい。

熊本大学HPより
熊本大学ホームページより転載

知の最前線である国内の大学では、海外から多くの教授陣や留学生を受け入れ、外国語(英語)での講義・授業を推進しようという声もあるが、私に言わせればナンセンス。日本、あるいは世界の利益のためには、外国からの教授陣、留学生にこそ、日本語や日本文化を吸収し、咀嚼してもらうべきなのだ。できれば長く日本で研究生活を継続して欲しい。勿論、グローバル化が進んだ現在において、コミュニケーションツールとしての英語が重要だというのは否定しないのだが、日本に居ながら彼らと英語で議論するのであれば、ただのアメリカの大学と一緒だ。日本はアメリカになりたいのか?多様な文化背景を持つ彼らが日本人と同じ思考で考え、日本語で議論し、コラボレーションすることによってこそ、日本に対する理解はより深まり、欧米文化とは違う、世界に通用する全く新しい概念や思想が生まれるのではないかと思うのである。

日本の大学で日本語で教える、ハンガリー人やイスラエル人、中国人の教授が、あるいは日本の研究機関や企業で普通に働く外国人が、日本での研究成果でノーベル賞を取るようになったら、日本の文化は全く新しいステージに向かうと思う。

私の職場では、いろんな国籍の人が働いている。インド、中国、フランス、ルーマニア、スイス、アルジェリア、インドネシア・・・(日本の企業です)。彼らのほとんどは日本の学校で高等教育を受けているので、日本人社員とのコミュニケーションは全く困らない(だから怠け者の私の英語力も向上しない)。古いタイプの人間である私などは、いまだに不思議な感覚を覚えるのであるが、外国人社員同士も日本語で議論している。そんな日本的思考で考えられる彼らが、どんな世間を驚かす技術や商品を創造してくれるのか、これからが楽しみである。

[参考・引用]
[1]日本の基礎科学がどうして強いのかについては様々な理由があるが、私が見るに、日本語で学問をするという点も大きいようだ。韓国日報、2008年10月10日、株式日記と経済展望、
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/14d2499f8076680e26530cad5d60e2a3
[2]「言葉のインフレ」は経済のそれよりはるかに恐ろしい 専門家同士でも分かり合えないITの英略語、谷島宣之の「経営の情識」、2010年4月2日、日経ビジネスONLINE、
http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20100331/213753/?P=3&ST=spc_cloud
[3]第106回:キム・ヨナ選手の金メダルは欧米型マーケティングの典型例、関橋英作、2010年3月5日、NETMarketingONLiNE、
http://business.nikkeibp.co.jp/article/nmg/20100304/213159/?P=3&ST=nmg_page
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