豊田喜一郎伝

豊田喜一郎伝 劇画トヨタ喜一郎

トヨタのリコール問題」で次回紹介と言っておきながら、ちょっと間が空いてしまった。リコール騒ぎも一時期よりはやや下火になった感はあるものの、2月度の米国販売シェアは一人負け状態だし(日本国内への影響は見られない)[1][2]、急加速の原因としてエンジンの電子制御システムに対する疑念はまだ晴れそうもなく、米議会からは追加情報開示を求められている[3]。そのトヨタの原点回帰という意味で、本日のクルマ絵本は、創業者豊田喜一郎の伝記本「豊田喜一郎伝」(和田一夫、由井常彦・原作、本間正夫・脚本、甲斐謙二・画、国際出版研究所 コミック産業情報シリーズ4)と「劇画トヨタ喜一郎」(木本正次・原作、影丸譲也・画、産業技術記念館)の2冊を紹介する。前者は学生向けのビジネス漫画といったところ。ネタ元は「豊田喜一郎伝」(和田一夫、由井常彦、トヨタ自動車歴史文化部・著、名古屋大学出版会)。後者は「夜明けへの挑戦~豊田喜一郎伝」(木本正次・著、学陽書房)を劇画化した伝記漫画。1969年に『週刊少年マガジン』(講談社)に掲載されたものの復刻版。コミック本を絵本のカテゴリーに入れるか否かは「ワーゲンを抱きしめたい」における私の定義を参考にしてもらいたい。

「TOYODA」のロゴ
「TOYODA」のロゴ

トヨタグループの始祖、豊田佐吉翁は彼の父であり、米議会公聴会に召還された豊田章夫現トヨタ自動車社長は、彼の直系の孫である。豊田はトヨダと読む。したがって、後者の「トヨタ喜一郎」は必ずしも正確な表記ではない(トヨタを創った喜一郎という意味なのであろう)。最初の量産型乗用車「AA型乗用車」の製品名も「トヨダ号」であり「TOYODA」というロゴが使用されている。それなのに何故トヨダはトヨタになってしまったのか。「誰かに教えたくなる社名の由来」(本間之英・著、講談社)によれば、『昭和初期の乗用車「トヨダ号」のマークを全国から懸賞応募したところ、審査の結果1人のデザイナーが考えたものが選ばれ、そのマークは「トヨタ」(古い人には馴染みのある丸に“トヨタ”のマーク)となっていた。濁点がないほうがスマートだという奥の深いようで単純な理由である。』なのだそうだが[4]、真偽のほどは? (以下、敬称略す)

豊田佐吉翁
豊田佐吉翁

豊田喜一郎は、1894年(明治27年)、静岡県敷知(ふち)郡吉津村山口市(現在の静岡県湖西市)に佐吉の長男として生まれる。母たみは、自動織機の発明に明け暮れ、家庭を顧みない佐吉の行動を理解できず、喜一郎が生まれてすぐに豊田家を去る。しばらくは彼の祖父母の下で育てられたが、父が浅子と再婚後に名古屋の両親の下で育てられるようになる。その後夫妻の間に生まれた異母妹となる愛子(トヨタ自動車工業初代社長、豊田利三郎の妻)を、忙しい両親に代わってよく面倒をみたそうだ。

学生時代は謹厳寡黙といわれた喜一郎であったが、幼い頃から父の会社の工場を手伝っていた影響もあり、機械いじりの好きだった彼は、仙台の旧制二高(現、東北大学)、東京帝国大学工学部機械工学科へと進む。大学での興味は機構学や熱力学という、機械の原動力・原動機に関するものであった。このことは後の自動車開発に大いに活かされる。大学卒業後はしばらく東大法科の聴講生として過ごすが、1921年(大正10年)、父が社長を務める豊田紡織へ就職する。

G型自動織機
G型自動織機

父佐吉は、喜一郎に技術者としてではなく経営を学ばせたいと考えていた。しかし、根っからのエンジニアである喜一郎は自動織機の研究や改良に熱中するようになった。始めは反対であった佐吉もその情熱と才能を認め、機械の設計をすることを許した。そして完成したのが、G型自動織機(正式名称は「無停止杼換式(ひがえしき)豊田自動織機」)。世界最初で最高性能の完全なる自動織機といわれ、大英博物館にも展示されるその機械は、佐吉翁の代表的な発明品とされる[5]が、「豊田喜一郎伝」によれば、喜一郎がその開発に大きく寄与していることが読みとれる。

1926年(大正15年)に豊田自動織機製作所(現、豊田自動織機)が設立され、喜一郎は常務となる。1929年(昭和4年)、当時世界的な繊維機械メーカーであったプラット・ブラザーズ社へ、G型自動織機の特許権を譲渡交渉するために、喜一郎は欧米に渡る。世界第一位のメーカーが自主開発をせずに、後発の豊田に技術供与を求めてきたことは逆に、繊維業界の将来が明るくないということを彼は悟る。事実その後衰退していく紡績業に変わる新規事業として、彼は自動車産業に将来性を見出すのであった。名技術者だけではなく、名経営者としての彼の優れた嗅覚である。80年後にGMが世界一の座をトヨタに明け渡したことも、その自動車産業が大きな節目にあることを示しているのかもしれない。時代の変化を見届けるかのように、1930年(昭和5年)に佐吉翁が亡くなる。

「豊田喜一郎伝」より
「豊田喜一郎伝」より

自動車への思いを強くした喜一郎は、プラット社への特許譲渡で得た金10万ポンドを元に、アングラで自動車研究に着手し始める[6]。「劇画トヨタ喜一郎」はこれ以降の話が中心だ。まず、若い技術者たちに自動車の知識を習得させることが重要と考え、優秀な若手技術者を採用した。そして彼らに厳しい試練を与えて、教育をしていったのである。その中には後に日本電装(現デンソー)の社長・会長を務めた白井武明らもいた。喜一郎は、特に現場で働く実践の工員を大事にした。彼は厳しい反面、彼らを褒めることで仕事に対する自身と責任を植え付けさせる人心掌握術に長けていた人物だったらしい。「モノづくりはヒトづくり」といわれるトヨタ・ウェイの基礎はここにあったようだ。

そして、1933年(昭和8年)に豊田自動織機製作所に自動車部、すなわち現在のトヨタ自動車のルーツが産声を上げ、翌年’34年には、株主総会で自動車製造の開始を決定した。自動車事業立ち上げは、「批評する力はあるが、実行する力がない。こういう人が1人でもいては自動車は作れない。やれるか、やれぬかではなく、誰がやるかである。」という喜一郎の信念の賜物でもあった。彼はまた、工場用地として、挙母(ころも)町(現在の豊田市)の土地58万坪(約191万m2)の購入を計画する。まだエンジンすら試作完成していない時期にである。「将来日本にも必ずモータリゼーションの波が来る。その時建設されるであろう高速道路のルートは、名古屋付近では挙母あたりしかない。元々荒地なので、田畑をつぶさず国のためにもなる」と。彼の先見性恐るべしだ。

その頃の日本の自動車事情といえば、「ダットサンとフェアレディS310系」でも紹介したように、1933年に鮎川義介社長の戸畑鋳物に自動車工業(後のいすゞ)からダットサンの製造権を無償譲渡し、戸畑鋳物は自動車製造を経て、’34年に日産自動車が誕生(※)したように、トラックや1000cc以下の小型乗用車を製造する民族資本が立ち上がり始めた日本自動車産業の草成期である。しかし、喜一郎はシボレーのような3000ccクラスの大衆車を作りたいと考える。恐らく、繊維機械のように将来海外へ自動車を輸出する時には、グローバルスタンダードである大衆車が必要と既に考えていたのであろう。

(※2014年3月22日補足):会社設立年の定義はいろいろとあると思うが、1933年12月26日、横浜に設立された自動車製造㈱が日産自動車の公式なスタートとされるようだ。1934年に現・日産自動車に社名変更している。
http://www.nissan-global.com/JP/COMPANY/PROFILE/HERITAGE/HISTORY/


しかし現実は予想通り甘くはなかった。彼らの当時の調査によると、日本製の部品は輸入品のイミテーションが多く、品質も劣悪で使用に耐え得るものではない、すなわち部品は内製するしかなかった。今回のブレーキペダルのリコール問題が、米国製部品の欠陥によるものであったことを考えると隔世の感がある。試作工場も完成し、車の心臓部といえるエンジンの試作にとりかかるが、これがうまくいかない。米国のシボレーをお手本にしていたものの、鋳物技術が大きな壁となった。最大のネックが中子(なかご)であった。

中子とは、鋳物の中空の部分を作るための砂型である(中子の機能を理解するには[7]のイラストが分かり易い)。エンジンの主要部品であるシリンダー・ブロックとシリンダー・ヘッドには中空の部分が多く、複雑な構造であることからこの中子の技術が肝となる。当時の中子は、川砂を主とした「ホロ砂」というものを使っていたが、脆くて使いづらく、中空鋳物の塊であるエンジンの不良品を出す大きな要因となっていた。彼らはアメリカから油中子という技術を取り入れた。油中子とは、「ホロ砂」と違って天然銀砂を主体に各種の油を混ぜたもので、砂こぼれ、型崩れがなく便利であったが、油の配合が難しかった。配合が合わないと湯(溶鉄)を注いでも噴いてしまうのだ。

A1型乗用車とG1型トラック(「豊田喜一郎伝」より)
A1型乗用車とG1型トラック(「豊田喜一郎伝」より)

問題はエンジンばかりではなかった。動力伝達装置、その重要要素となる歯車(ギア)の構造、ボディの生産方法等々。しかし、彼らは試行錯誤を積み重ね、数々の問題を解決することでA型エンジン試作に成功。1935年(昭和10年)には、A1型乗用車とG1型トラックの試作車を完成させた。とはいえ、現在の車に比べ故障は続出、G1型トラックに至っては、発表会場に向かって自走する途中に部品が折れるといったお粗末なレベルだった。

当時の日本の技術ではしょうがないとして、喜一郎がすごいところは、まだ自動車の量産の目処も立っていないこの時期に、既に乗用車販売の重要性について考えている点だ。大衆車を売るには、GMやフォードのようなディーラー方式が必要と考え、販売網の整備を神谷正太郎(「販売の神様と呼ばれた」後のトヨタ自販社長)に指示している。

「劇画トヨタ喜一郎」より
「劇画トヨタ喜一郎」より

しかし一方で、喜一郎の自動車研究を放蕩息子の道楽だと不満を訴える従業員も少なからずいた訳だが、彼らを説得し、自動車事業を陰でサポートしたのは、他ならぬ社長であり義兄の利三郎であった。彼の理解なくして、後のトヨタ自動車はなかったのである。

昔懐かしい「トヨタ」のマーク 豊田利三郎
(左)昔懐かしい「トヨタ」のマーク(右)豊田利三郎

1936年(昭和11年)5月に、自動車製造事業法が施行されたのを受け、豊田自動織機製作所は正式に同法による許可会社申請を行い、7月に日産自動車とともに許可会社として内定された。ここにA1型乗用車とG1型トラックの量販車であるAA型乗用車とGA型トラックが誕生した。同年9月にはトヨダ車の図案マーク(前出の“トヨタ”マーク)を制定、翌年8月に会社設立の登記を終え、本社工場を購入した挙母町の土地に建設した(この頃から、現在でも有名なトヨタの生産システム、必要なモノを必要なタイミングで必要なだけ提供する“ジャスト・イン・タイム”を指導・展開している!)。社長に利三郎、副社長に喜一郎が就任、設立からちょうど70年で世界最大の自動車会社となった(’07年に生産台数世界一達成)、従業員3,000人の「トヨタ自動車工業株式会社(現、トヨタ自動車)」が誕生したのである。1941年(昭和16年)に喜一郎が社長に就任するも、時代は戦争へと傾斜、彼の思い描く姿とは逸脱していく。

トヨタAA型
トヨタAA型

戦後、再び本来の自動車製造ができるようになったのもつかの間、1949年(昭和24年)の戦後日本経済復興のために実施された財政金融引き締め政策、いわゆる「ドッジ・ライン」に伴うデフレにより経営危機に陥り、1950年に喜一郎は社長を辞任した(辞任直後に勃発した朝鮮戦争による軍用トラック特需で倒産を回避できたのは何とも皮肉である)。トヨタ自動車は、2008年の金融危機により、2009年3月期の営業利益が59年ぶりの赤字に転落したが、59年前がちょうど喜一郎が社長を下りた年であった。その間、全て黒字経営というのもすごいけれど。その後、三代目社長の石田退三に説得されて、’52年7月の社長復帰を内定したにも関わらず、同年3月27日、東京で原稿執筆中に脳溢血で倒れ、念願だったトヨタの大衆乗用車の完成を見ることなく帰らぬ人となる。享年57歳であった。

豊田喜一郎
豊田喜一郎

「豊田喜一郎伝」の方は温厚でスマートな人物として喜一郎を表現しているが、「劇画トヨタ喜一郎」では、いかにも”劇画”らしく、三河弁も生々しい、豪気さのある喜一郎に仕立て上げている。どちらがより本物の人物像に近かったのであろうか。しかし、常に時代の先を見つめる眼光の鋭さは共通して描かれている。

- 常に時流に先んずべし -

これは、豊田利三郎、豊田喜一郎らが佐吉の遺訓としてまとめた豊田綱領(企業理念)[8]の一つだ。こういう経営者や指導者が、今の日本には必要なんだよなあ。

今回のブログの参考に、「豊田喜一郎物語」というビデオコンテンツを息子と二人、パパの解説付きでパソコンの前で視聴。まあ、トヨタの宣伝ビデオなのだが、なかなかよくできたもので、息子も面白そうに観ていた。お子さんとのコミュニケーションツールとしてトヨタの歴史を勉強するのもよいだろう。
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10019340/0/index.html

最後に豊田喜一郎の名言を2、3紹介。彼が、今の日本の製造業の現実を見たら、どんな苦言を呈するのであろうか。まさに現代社会への教訓ともいえる、普遍性のある名言の数々。

- 現場で考え、研究せよ。-

机の前に座っていてもいい仕事は出来ない。現場に赴き現物を手にしてこそ、アイデアが生まれ、問題点にも気づき仕事が回転していく[9]。プログラミングが要素技術の要になってきた現在、座っていても一応モノは動いてしまう。自動車の電子制御化で頭脳部分はブラックボックスとなり、第三者が見ても中身を理解するのが不可能になってきた。手のきれいな技術者を見ると激怒したという喜一郎だが、現物を肌で感じるのが難しくなりつつあるエンジニアリングの世界。エンジニアの端くれとして、耳の痛いお言葉である。

- 一旦トヨタから出した車は何処が悪くても全責任を負わなければなりません。それを他の部分に罪を着せずに、自家製品の悪いところを言い逃れの出来ぬ様にさせると云う事は、自分自身の製品に自信をつける最も大事な事であります。-[10]

まさにこの言葉に従って行動していれば、今回のリコール問題における最初の大きなミスを犯すことはなかった。

- 私が憂慮しているのは、諸先輩の努力で確立した「ゆるぎなき自信と自負」が「慢心」に転化していないか、これまで当然見えていたものが、当たり前として見えなくなっていないか、また、「安易な習慣化」により努力が適切に評価されなかったり、チャレンジ精神をむしばんでいないか、ということである。-[6]

今回のリコール問題を引き起こした、真の原因は何か。今一度、この言葉を胸に振り返ることが重要であろう。トヨタ全従業員だけでなく、長く暗いトンネルから抜け出せない日本の製造業に携わる全ての人が、心に留めておくべき言葉。“ジャパン・アズ・ナンバー1”の「慢心」の結果が今の日本の現状である。

[参考・引用]
[1]トヨタ、2月も米で「一人負け」 新車販売8%減、2010年3月3日、asahi.com、
http://www.asahi.com/business/update/0303/TKY201003030244.html
[2]トヨタリコール 影響みられず 2月国内新車販売台数、2010年3月2日、SankeiBiz、
http://www.sankeibiz.jp/business/news/100302/bsa1003020505005-n1.htm
[3]トヨタ問題、米議会の追及続く=急加速で追加情報開示を要求-電子系統の調査不十分、2010年3月6日、時事通信社、
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/business/jiji-100306X370.html
[4]トヨタ自動車が「トヨタ」になったのはデザイナーのせい、2004年10月20日、雅版雑記(仮)、
http://blog.livedoor.jp/gaban/archives/8284783.html
[5]株式会社豊田自動織機 始祖 豊田佐吉翁、man@bou経済について楽しく学べる、
http://manabow.com/pioneer/toyota/1.html
[6]豊田喜一郎 終戦の廃墟の中から、クルマの歴史を創った27人、広田民郎、山海堂
[7]鋳物って?、㈱協和製作所ホームページ、
http://kyowa-fact.co.jp/tech/imono.html
[8]企業理念、トヨタ自動車ホームページ、
http://www.toyota.co.jp/jp/environmental_rep/03/rinen.html
[9]豊田喜一郎の名言、みんなの名言集、
http://quote.qooin.com/maxim/kiichiro-toyota.html
[10]豊田喜一郎の名言、名言サプリ、
http://message.from.tv/human.php?human_id=92
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おもしろそうな漫画ですね。油が 爪の間に入るの嫌ですね。
今 いろいろな 手袋が できましたね。
努力した人達が 今の便利な街を作ったんですね。
現代においても まだまだ 便利なものが 必要ですね。
愛地球博で トヨタ館 入れなかった。並ぶの嫌い。
ロボットが できるのかなぁ。
[ 2010/03/19 20:28 ] [ 編集 ]

志の高かった豊田喜一郎

村石様
コメントありがとうございます。
この漫画、なかなか勉強になります。
昔の企業人は一経営者としてだけでなく、この国をどう変えていきたいのか、
といった大きな志を持っていたことがわかります。
それに比べると今の経営者はスケールも志も小さくなりました。
モノづくりも、手が汚れなくなってきましたね。
人型ロボットはトヨタもやっていますが、どう進化するのでしょうね。
私は車がロボット化する(高い知能を持つ)方が先だろうと思っています。
[ 2010/03/20 13:54 ] [ 編集 ]

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