ポルシェ 自動車を愛しすぎた男

とかく偉人伝、伝記ものというと、その人の人生を褒め上げるものが多く、失敗や間違いを覆い隠そうとする傾向がある。特に児童書においては。しかし、前回の「ポルシェ博士の3つの夢」や今回紹介する「ポルシェ 自動車を愛しすぎた男」(斎藤憐・作、広野徹・絵、ブロンズ新社)は、彼の戦争との関わり、人生の負の部分についてかなりの紙面を割き、児童書としては非常に客観的な内容となっている点で、好感がもてる。また後者は、児童書では省略しがちな技術的記述、その技術が生まれる歴史的背景についても、著者は門外漢ながら丁寧にわかりやすく説明しており、技術史読み物としても大変良書であると感じた。そもそもポルシェ博士自身が、功罪両面の教師ともいえる、非常に稀有な人生を歩んできたことが、これらの良き教科書を生んだのかもしれない。

フェルディナントが戦争と関わりを持つのは第一次世界大戦前にさかのぼる。彼がハイブリットカー「ミクステ」を開発し、レースで優勝したことは、とある筋にも注目されていた。1905年、彼はオーストリア皇太子フランツ・フェルディナント直々に「ミクステ」のテスト走行を要請され、オーストリア・ハンガリー軍の大演習に召集される。フェルディナントは皇太子を「ミクステ」に乗せて走り回り、得意になっていた。

オーストリア皇太子を乗せて「ミクステ」で走るポルシェ
オーストリア皇太子を乗せて「ミクステ」で走るポルシェ(「ポルシェ 自動車を愛しすぎた男」より)

当時、世界は植民地の覇権争いで、英・仏・露の三国協商と、独・オーストリア・伊の三国同盟の間で睨み合いが続いており、いつ戦争が起こってもおかしくない状況だった。そこで、自動車が兵器として役立つか、皇太子はテストを行ったのである。結局、「ミクステ」はウィーンの消防署や陸軍などで採用されることになる。この功績により、フェルディナントは1905年、オーストリアで活躍する技術者の最高名誉であるぺティング賞を受賞している。

フェルディナントがオーストロ・ダイムラー社で活躍していた頃、彼は飛行機にも興味を示す。1903年にライト兄弟がはじめて空を飛んで以来、当然のことながら航空機は兵器として注目されることになる。ライト兄弟自身もその重要性を認識しており、まず最初にアメリカ陸軍に売り込みをかけたといわれる[1]。オーストリア軍も例外ではなかった。1910年、フェルディナントは飛行機用の6気筒水冷式エンジンを開発、1912年にはさらに軽量化を図るために、4気筒の空冷式水平対向エンジンを開発する。これは、のちのフォルクスワーゲン・ビートルのエンジンの基礎となった。これらのエンジンは軍用機に採用され、1913年には、オーストリアは世界第6位の飛行機保有国となっていた。

プロペラ機の場合、プロペラの後方に機関銃を置いても、何ゆえ機関銃の弾でプロペラを撃ちぬかないのか。これは.「プロペラ同調装置」と呼ばれる機構によって、プロペラに当たらない瞬間だけ発射されるように調整されているためである。同調装置の原理はプロペラ回転軸にカムが装備されており、この動きが油圧または電気信号で機関銃のところまで誘導され、安全装置に入る。こうして、プロペラとプロペラの間の空間だけ安全装置が解除され、弾丸が発射されるようになる[2]のだが、このアイデアもフェルディナントによるものである。

フェルディナントは「飛行機用の軽くて力の強いエンジンが作れれば、それはきっと自動車のエンジンとしても優れたものになる」と考えていたようで、彼がその技術開発のためのスポンサーとして軍が役に立つと考えていたことは容易に想像がつく。

そして1914年、「ミクステ」に乗せたオーストリア皇太子夫妻が、サラエボでセルビア人青年の凶弾に倒れ、第一次世界大戦が勃発する。大戦の前年、オーストロ・ダイムラー社は、ボヘミア(現チェコ)の兵器メーカー・シュコダ社(Skoda、現フォルクスワーゲンの子会社)と合併、それ以降、ポルシェは技術指導者としてたくさんの戦争用自動車を作っている。

4輪駆動牽引車M12とシュコダ砲
4輪駆動牽引車M12とシュコダ砲[2]

1916年にシュコダ社の大砲を戦場に運ぶための100馬力の4輪駆動牽引車M12を開発している[3]。その後、軍用車が4輪駆動を採用しているのは周知のとおり。彼は、既に「ミクステ」で4輪駆動仕様も製作しており、4駆システムに関しても先駆的な業績を残している。当時「ミクステ」は時代遅れになっていたものの、ハイブリット技術は軍事利用もされていた。ポルシェは、最大10台のトレーラーを牽引可能な「自動車列車(Landwehr train)」を開発している。これは、先頭車に搭載された100馬力のダイムラー製ガソリンエンジンによって発電機を回し、後列には車輪に直接モーターを付けた(ハブモーター)の電気自動車を連結して、先頭の発電車から電線で電気を送るハイブリット自動車列車であった。さらに、それまで列車でしか運べなかった42インチ、28トンのシュコダ砲を運搬するための「C牽引車(C-train)」も開発する。これは20L、150馬力のガソリンエンジンを持つ6台の発電車と、8個の車輪のついた6台のトレーラーから構成される。トレーラーは、8個の車輪にそれぞれ電気モーターが付いた8輪駆動電気自動車であった[4]。

自動車列車
自動車列車[4]

C牽引車
C牽引車[4]

さて、フェルディナントは後年、ポルシェ「博士」と呼ばれていたが、大学も聴講生でしかなかった小学校卒のポルシェが何ゆえ「博士」なのであろうか。1916年にオーストロ・ダイムラー社の総支配人になったフェルディナントであったが、これまでの紹介のように航空機エンジン、自動車、軍用トラック、各種牽引車など軍への功績が認められ、オーストリアの皇帝フランツ・ヨゼフ(Franz Josef)から勲章を授与されている。そして、聴講生として通っていたウィーン工科大学から名誉博士号が贈られた(後年、独シュツットガルト工科大学からも名誉博士号を授与)。このことから、ポルシェ博士と呼ばれるようになった。

ポルシェ博士の3つの夢とは…
ポルシェ博士の3つの夢とは…(「ポルシェ博士の3つの夢」より)

前回の「ポルシェ博士の3つの夢」とは何であろうか。それは、
1.誰もが乗れる小型車を作ること、
2.農家の人たちのためのトラクターを作ること、
3.最先端のスポーツ・カーを作ること、
であった。いずれの夢も後年かなうことになるのであるが、それはある人物の支援抜きでは語れない。その人物こそ、あのアドルフ・ヒトラーであった。

ポルシェ博士が初めてヒトラーと会ったのは1925年頃。ゾリチューデの自動車レースの会場で、友人にヒトラーを紹介されている。そして、彼がドイツ首相になった翌年の1933年、再会を果たす。ヒトラーはポルシェ博士を首相官邸に招いたのであった。ヒトラーはレース会場での初対面を覚えており、「ドイツ国民みんなが乗れる安くて丈夫な民衆車、フォルクス・ワーゲンをつくれないだろうか」と提案してきた。これこそ、ポルシェ博士の第1の夢であり、新生ドイツの新しいリーダーの言葉に彼は大興奮してしまう。

フォルクス・ワーゲン38
フォルクス・ワーゲン38[3]

翌1934年にポルシェ博士はドイツ帝国自動車産業連盟(RDA)とフォルクス・ワーゲンの製作に関する契約を結ぶ。コンセプトは「夫婦二人と子ども二人が乗る自動車」、仕様は「1250cc、水平対向4気筒エンジン、出力は25馬力、車両重量650kg、最高速度100km/h、燃費は12.5km/L」。今までの失敗と経験から得た博士の合理的な計算による提案だ。しかし、ヒトラーの要求は、これを1000マルク以下という当時としては破格の値段設定にせよという。しかも予算20万マルク、開発期間10ヶ月で。そして開発期間のコミットメントは達成できなかったものの、2年半後に3台の試作車、フォルクス・ワーゲン3シリーズを完成させる。テストの結果、自動車産業連盟の評価は満点以上であった。さらに改良を重ね、1938年に最後の試作車、ヒトラーよりKdf(Kraft durch Freude=「喜びを通じて力を」というドイツ労働戦線のスローガンの頭文字)と命名された[5]、フォルクス・ワーゲン38を完成させる。年産80~100万台の大量生産(この頃、生産責任者に任命された博士は渡米し、フォードで大量生産のノウハウを学んでいる)の工場予定地として、ウォルフスブルク(現在のVWの本社がある)という小さな村が選ばれ、1937年フォルクスワーゲン準備会社(Gesellschaft zur Vorbereitung des Deutschen Volkswagens GmbH)を創立、1938年フォルクスワーゲン製造会社(Volkswagenwerk GmbH)となった[5][6]。

農業用トラクター110型
農業用トラクター110型
出典:http://www.uni-stuttgart.de/hi/wgt/Projektseminar_History_Marketing_Porsche_WS_13_14/Hausarbeiten_Porsche/Willrett_pop.pdf

次に、ヒトラーはポルシェ博士に、非効率なドイツの農作業を改革するため農業用トラクターの大量生産を提案する。これは、ポルシェ博士の第2の夢。ポルシェ博士は1938年までに、トラクター110型、111型の生産を開始、ヴァルトプレールに大工場を建設し、113型の年産30万台が決定した[7]。

Pワーゲン
Pワーゲン[5]

そしてポルシェ博士第3の夢。またしてもその夢をサポートしたのが、ヒトラーであった。世界に冠たるドイツの国威発揚のための宣伝材料としてレースやスーパーカーに目をつけたのであった。彼は、「ダイムラー・ベンツ社」と「アウトウニオン社」(Auto Union、現アウディの前身)に対して、新規にレーシングマシンを製作するよう打診し、ドイツの技術をフルに使った「最強の車」を作るよう命令した。ポルシェ博士はアウトウニオン社の依頼で、ミッドシップ方式のレーシングカー「Pワーゲン」を1934年に開発。「Pワーゲン」は、64レース中32レースを制覇、世界記録を樹立した[5]。

T80その1
T80その2
T80[5]

また、当時世界では自動車の速度記録が競われており、1935年にイギリスのキャンベル少佐が484.62km/hを出して「絶対的世界記録」と呼ばれていた。技術者魂に燃えるポルシェ博士もこの記録を破りたいと考えるのは当然であった。ヒトラーの資金援助を受けてスーパーカー「T80」の構想を始める。エンジンはメルセデス・ベンツが開発した44700cc、3000馬力の航空機用エンジン、全長8.5m、重量2.8トン、最高時速は700km。2.8トンの重量を支えるために6輪とし、うち4輪が駆動する。現在のレースカーでは当たり前である、高速で車体が浮き上がらないようにダウンフォースを発生させる翼もつけた。さらに空力特性を考え、操縦席は完全に塞いで、小さな穴から前を見るようにした[5]。

1938年、ポルシェ博士は、「Pワーゲン」の開発とそれまでの功績によって「ドイツ第3帝国国家賞」を受賞、同時に名誉教授の称号が贈られた。これにより、今でいうチェコ人であった彼は名実ともにドイツの国民として生きていくことになる[5]。

しかし、1939年の第二次世界大戦の勃発とともに、民衆車の大量生産も、農業用トラクターの生産計画も、世界最速の車の計画も頓挫してしまう。ウォルフスブルクの工場は戦争兵器の工場に変わってしまった。そして、前大戦に引き続いて兵器開発においても、ポルシェ博士は非凡な才能を発揮する。

キューベル・ワーゲン シュビムワーゲン
(左)キューベル・ワーゲン(右)シュビムワーゲン[5]

フォルクス・ワーゲンを軍用車へ改良した「キューベル・ワーゲン」と「シュビムワーゲン」。「キューベル・ワーゲン」は、エンジンを1300cc、25馬力に性能アップ。フォルクス・ワーゲンの空冷式エンジンは、ラジエターと水のいらないことから酷寒のロシア戦線や灼熱のアフリカ戦線でもその威力を発揮した。リアエンジン・リア駆動(RR)は、駆動伝達シャフトが不要のため車体下がフラットとなり、でこぼこのある悪路走行に適した。「シュビムワーゲン」は4輪駆動の水陸両用車。4人の兵士を乗せて時速80kmで走り、水上ではスクリューで時速10kmで走った[5]。

重駆逐戦車フェルディナント
重駆逐戦車フェルディナント[5]

また、重戦車「ティガー(タイガー)」の設計を、ヘンシェル社と競作する。ポルシェ博士案は「ミクステ」以来の得意のシリーズハイブリット駆動方式。しかし、信頼性の問題でヘンシェル社案の駆動方式が採用される。ポルシェ博士案の試作車は自走砲「フェルディナント」に改装された。「ティガーⅡ(キングタイガー)」もヘンシェル社案が採用されるが、最初の50輌にはポルシェの開発した曲線的なフォルムの砲塔(ポルシェ型砲塔)が搭載された[5]。

キングタイガー重戦車ポルシェ型砲塔 重戦車マウス
(左)キングタイガー重戦車ポルシェ型砲塔[8](右)重戦車マウス[5]

また、ヒトラーの命令により、重量188トン、ダイムラー・ベンツ製の(本来は航空機用の)V型12気筒、1080馬力エンジンを搭載、駆逐艦並の127ミリの主砲と75ミリの副砲を備えた重戦車「マウス」も試作している[5]。あまりの重量に実戦配備は無理だったと思われる。

話はそれるが、私は中学生の頃に、タミヤ1/35スケールのミリタリー模型をよく作っていた。当時人気のあったモデルが、上記に出てきたような「キューベル・ワーゲン」や「シュビムワーゲン」、「タイガー戦車」といったドイツ軍兵器だったことを思い出した。「シュビムワーゲン」は確かに作った記憶があり、戦争経験者でないのに妙に懐かしい。

ポルシェ博士とヒトラー
ポルシェ博士とヒトラー[5]

頑固な技術者で、政治にさっぱり関心のないポルシェと評されるが、本当にそうだったのであろうか。ヒトラーとの関係性を見ても、両者お互いに利用しあっていたように見える。ヒトラーがどのような影響力を持っているかを十分理解していた、かなり計算高い人物だったのではないかと思えるのである。戦争責任についても、かなり認識があったと考える方が妥当ではないだろうか。これだけ頭の切れる天才技術者が、自らの開発品がどのような仕事をしているか想像できないはずがない。機械の利用イメージができなければ、優れた設計は出来ないからだ。それは、彼が自分で作った戦車やキューベル・ワーゲンが前線で何をしているかを決して見なかったという逸話が物語っている。単なる技術馬鹿であれば、三現主義に基づいて現場(前線)に足を向けるのが自然だ(純粋な馬鹿は、危険を顧みない)。それをしなかったということは、殺戮兵器を開発しているという後ろめたさがあったために、政治的無関心を装って、あえて現実から目をそらしていたとしか考えられない。

ポルシェ博士の負の業績は、科学者・技術者の倫理を考える上で、反面教師となっており、博士の生涯はもっと学ばれるべき貴重な歴史の一部である。本書「ポルシェ 自動車を愛しすぎた男」は、彼の優れたエンジニアとしての一面も含めて、子どもたちだけではなく、科学者や技術者を志す若い人たち、そして、現役の科学者や技術者に是非読んでもらいたい。

ドイツ敗戦後の1945年、ポルシェ博士は戦争犯罪人としてフランスにより逮捕され、1947年まで収監されている。その後は健康状態が優れず、自動車の設計やポルシェAGの運営の大部分は息子フェリーが取り仕切ったが、戦後、1945年から本格生産を開始したフォルクスワーゲンと1948年から生産開始されたポルシェ・356の成功を見届けている。彼の夢は平和の時代にやっと実現可能となったのである。そして1950年、75年の波乱に満ちた生涯を閉じたのであった[9]。

[参考・引用]
[1]戦争の科学、アーネスト・ヴォルクマン・著、茂木健・訳、神浦元彰・監修、主婦の友社
[2]FAQ、航空機銃研究所、
http://www.warbirds.jp/crazy/jp/gun/faq.htm
[3]Skoda 305 mm Model 1911、
http://en.wikipedia.org/wiki/Skoda_305_mm_Model_1911
[4]Hybrid Vehicle Gigants The Porsche Land Trains!、Hybrit Vehicle.org、
http://www.hybrid-vehicle.org/hybrid-vehicle-landwehr.html
[5]ポルシェ博士とヒトラー~「フォルクスワーゲン」誕生の舞台裏~、
http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_hc/a6fhc260.html
[6]フォルクスワーゲン、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3#.E6.A6.82.E8.A6.81
[7]Porsche Volksschlepper、
http://www.stasher.us/porsche_volksschlepper.htm
[8]"Porsche" King Tiger Normandy July 1944、precision-panzer、
http://www.precision-panzer.moonfruit.com/#/porsche-king-tiger/4539286897
[9]フェルディナント・ポルシェ、Wikipedia、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7
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