ポルシェ博士の3つの夢

ドイツの高級スポーツカーメーカー、ポルシェと傘下企業であるVW(フォルクスワーゲン)が経営統合の問題で揺れている[1][2]。自動車大手VWが、あのポルシェとはいえ少量生産メーカーの子会社だということを知らない人も多いと思うが、もとを辿ればこの両社の産みの親は、天才エンジニア、フェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche)博士。両社が一つになってもおかしくはないし、統合されれば、自動車業界はトヨタグループとの実質二強時代になるのではないだろうか。今回と次回は、このポルシェ博士の生涯を綴った2冊の児童書を紹介し、彼の功と罪について勉強してみようと思う。

小生、薄給のサラリーマンなので、ポルシェとは縁遠いのだが、かなり昔に911のハンドルを握った覚えがある。そのときの印象はあまり覚えていないが、ポルシェにはなにか機械的な無機質なイメージがあった。しかし、ポルシェ博士の生涯を知ると、技術者としての完璧さを再認識すると同時に、彼の人間的な弱い面も見えて、彼の遺志を受け継ぐポルシェ車やワーゲン・ビートルに対する見方も変わってきたように思える。

さて、一冊目は「ポルシェ博士の3つの夢」(企画制作・アカデミア・ヴェントウーノ、絵・陣崎真枝)。以前紹介したディーゼル博士の生涯をまとめた「ジーゼル・ストーリー」も含まれるJAMCA(全国自動車整備専門学校協会)BOOKシリーズの一冊だ。中学生以上向きの小さな冊子だが、コンパクトにまとめられており読みやすい。まず今回は、彼の光と陰の人生の、おもに光の部分について整理してみる。

Ferdinand Porsche
Ferdinand Porsche

スポーツカーのイメージが強いポルシェ博士であるが、彼はもともと電気屋さん。最初に手がけた自動車は電気自動車で、今話題のハイブリット車を世界で初めて作ったのも彼である。最新の自動車技術の先駆け的な仕事も、ポルシェ博士の功績の一つである。

フェルディナンド・ポルシェは、1875年に当時のオーストリア・ハンガリー帝国の北ボヘミア地方(現在のチェコ)、マッフェルスドルフ(現在のヴラスティスラヴィツェ)という小さな村で、ブリキ職人の家に生まれた。

「ポルシェ博士の3つの夢」一部

フェルディナントはマッフェルスドルフの学校の実験で電気に出会ってからというもの、その不思議な力の虜になってしまった。その後の人生を決めたともいえるきっかけは、父親のおつかいで、同じ村のカーペット工場に出かけたときのこと。そこで彼は電燈を目にする。当時の家庭では、オイルやガスランプ、ロウソクの明かりが一般的だった頃。まだ、エジソンの白熱電球も発明されていない時代に、放電によるアーク燈の神々しい輝きに釘付けとなる。それ以来、好奇心旺盛なフェルディナント少年はその工場に通いつめ、バッテリーを使って家の屋根裏部屋でこっそり実験に励んだ。

もともと、彼を職人の跡取りにしようと考え、息子の電気の勉強に理解のなかった父親だったが、電気に熱中する息子の姿に、ライヘンベルク帝国技術学校夜間部での勉強を許す。そして、とうとう発電機を自作し、自宅に電燈をつけたのであった。結局、彼のこの並外れた執念と才能に父親も折れ、首都ウィーンにある電気工場「べラ・エッガー商会(Bela Egger&Co.)」で働きながら、ウィーン工科大学の聴講生として、さらに物理や電気工学、機械工学を学ぶこととなる。

そこで、彼の生涯の仕事を決めるものに出会う。べラ・エッガー商会の図書係であるアロイジア・ケース嬢(後のポルシェ夫人)の案内で行ったウィーン工芸博物館で、展示されていた一台の自動車に興味を抱く。ジークフリート・マルクスが1875年に作った石油ガスで走る内燃機関の自動車である。あの電気と同じように、それ以来フェルドナントは自動車が忘れられない。

当時の自動車の動力源は蒸気、ガソリン、電気と様々であった。その中で静かな電気自動車は、うるさいガソリンエンジンと異なり上流社会のライフスタイルはマッチしていた。当時は、高価であった自動車は上流階級の乗り物であったため、電気自動車が優位にあった。そんな中、電気自動車に将来性を見据えていたのが、馬車製造業を営むヤコブ・ローナー氏。

ローナー・ポルシェ電気自動車
ローナー・ポルシェ電気自動車

そんなローナー氏からある日、ぺラ・エッガー商会に電気自動車の修理の依頼があった。電気が得意で自動車に興味を持っていたフェルドナント。水を得た魚はみごとな修理を行い、ヤコブ・ローナー社(Jacob Lohner&Co.)に引き抜かれることになる。この会社での功績として、1900年パリ万博に出品され、グランプリを受賞した「ローナー・ポルシェ電気自動車」がある。通常の動力源(モーター、エンジン)の駆動力は、ギア(歯車)を介して車軸に伝達するために非力な電気自動車は不利であった。そのため、前輪にモーターを取り付けダイレクトに車軸に駆動力を伝える方法を採用。後輪駆動が主流の当時において、前輪駆動自体も画期的であったが、将来の自動車電動化では必ず採用されるであろうと考えられるインホイールモータ方式の先駆ともいえる先進技術である。これによって、ハンドルも自由に切ることができる。

ローナー・ポルシェハイブリット「ミクステ(Mixte)」
ローナー・ポルシェハイブリット「ミクステ(Mixte)」

彼はこれだけでは満足しなかった。パリ万博の2年後。現在の電気自動車でも欠点といわれているバッテリー重量増、後続距離の短さの問題を解消するため、ガソリン・エンジンの長所と電気自動車の長所の両方を使う、いわゆるハイブリットカーミクステ」を世界で初めて開発する。同年、この車を自ら運転してレースに出場、優勝している。「ミクステ」の方式は、ガソリンエンジンで発電してバッテリーに蓄電し、モーターで動く今で言うシリーズ・ハイブリット式だ、先日、世界初の量産ハイブリット車「トヨタ・プリウス」がフルモデルチェンジしたが、プリウスのそれは、走行条件によって動力源をエンジンと電池で切り替えるパラレル・ハイブリット方式といわれるもの。現在では後者の方が一般的となっている。それにしても100年以上前にすでにハイブリット方式を考え、実現していたとは驚きである。

これをスタートに自動車開発に邁進していくフェルドナントであったが、研究開発にはお金がいる。彼の研究心を満足させられるほどヤコブ・ローナー社に潤沢な資金があるわけではなかった。そこで1905年に「オーストロ(アウストロ)・ダイムラー自動車工場(Austro-Daimler)」に転職する。ガソリン自動車の発明者といえば、カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーであるが、ゴットリープ・ダイムラーはシュツットガルトにダイムラー本社を設立、息子パウルにオーストロ・ダイムラー社を製作指揮を任せていた。そのパウロの後任に彼が着いたわけである。

1909年式マーヤ(Maja)
1909年式マーヤ(Maja)

ここでの功績は、ダイムラーのドイツ工場で使られていた「メルセデス」に対して、ブランド力で大きく劣っていたオーストリア工場製の「マーヤ」のブランド力を上げたこと。彼は、1909年、当時主流であった3速の変速機に対して、4速ギアの32馬力の新型「マーヤ」を開発、各国王室の御用達になる名誉を得る。また、「ミクステ」のエンジン改良から燃料が燃えやすくなる工夫として、その後のレースカーのスタンダードとなる「二重点火装置」を開発、85馬力、最高時速125kmまで出せるようになった。そして、ここまでの高速領域になると、制動(ブレーキ)性能が重要になってくる。ブレーキは運動エネルギーを熱エネルギーに変換することで機能する。そしてこの熱エネルギーを放出して温度をコントロールすることで、ブレーキの効き、耐久性を向上させる。フェルディナンドはここにも注目して、後輪に水冷式のブレーキ冷却装置を考案している(前輪はモーターの逆回転で制動)。よく、「ポルシェのブレーキ性能は宇宙一」といわれるが、こういうところにも既にその萌芽が見られる。さらに、少し前までは高速用高性能エンジンの吸排気バルブ開閉方式の代名詞といわれたOHC(オーバーヘッドカム)機構を既に採用して最高時速も140kmに向上、1910年のプリンツ・ハインリッヒ・レースで1・2・3フィニッシュと12ある特別賞のうち9つを受賞する快挙を達成してしまう。

1910年プリンツ・ハインリッヒレースで活躍したレースカーたち
1910年プリンツ・ハインリッヒレースで活躍したレースカーたち

この時期、19世紀後半から20世紀前半は世界各国で自動車開発が盛んになった頃。そして新車の発表の場になったのが、「自動車レース」だった。フェルドナント自身も自動車レースについて以下のように語っている。「過酷なレースに耐えられる自動車の開発は、自動車の性能を良くする一番の方法だ。それに会社や車の宣伝にもなる。」

小型スポーツ「ザッシャ(Sasha)」
小型スポーツ「ザッシャ(Sasha)」

第一次世界大戦後、自動車もお金持ちのための贅沢な商品から、庶民が買える小型大衆車が求められるようになっていく。先に紹介した「T型フォード」の大量生産開始もちょうどその頃。フェルディナントもその社会的変化の匂いを嗅ぎとり、小型車を作りたいと考えるようになっていた。しかし、オーストロ・ダイムラー社は、この思いを理解できない。その頃、ザッシャ・コウロウラート伯爵というスポンサーを得て、4気筒OHC、1100ccの小型スポーツの傑作「ザッシャ」を生むものの、大衆小型車開発で会社と対立、1923年にドイツ・シュツットガルトのダイムラー社(Daimler-Motoren-Gesellschaft)に転職する。

タルガ・フローリア(Targa Floria)レース優勝車
タルガ・フローリア(Targa Floria)レース優勝車

1924年、メルセデスの改良を行い、モータースポーツの父と呼ばれるビンチェンツォ・フローリオ伯爵の名を冠した伝説の「タルガ・フローリオ」レースで優勝を果たす。1926年のベンツ社との合併後も、6~7Lの大排気量で、スーパーチャージャー付の大型車、メルセデス・ベンツ社の黄金期を支えた名車S、SS、SSKを生むなど数々の業績を上げる。そのような功績があったにも関わらず、やはり小型車開発の思いはここでも理解されぬまま、ダイムラー・ベンツ社を退社する。

Mercedes SSK
Mercedes SSK

その後、オーストリアのシュタイア社(Steyr-Werke AG)を経て(古巣オーストロ・ダイムラー社が吸収合併したため退職する)、彼の3つの夢をかなえるべく自分の会社「ポルシェ自動車設計事務所(Dr. Ing.h.c. F. Porsche GmbH)」を1930年に立ち上げる。ここでは、小型軽量化が図れるトーションバー式サスペンションを開発し、特許のライセンス料で、経営は順調であった。しかし、彼の3つの夢は、皮肉にもヒトラーの支援によって実現することとなる。

ここまではフェルディナントの自動車技術者としての光の部分。彼の考えに考え抜き、技術を磨くための徹底した研究心は、尊敬に値する。少しでもこの「執念」があれば、私も良いエンジニアになれたと思うのだが…。後半は生来の技術者ゆえ、第一次、第二次大戦において結果的に戦争に加担してしまうこととなる負の側面を、「ポルシェ 自動車を愛しすぎた男」の紹介を通して見ていこうと思う。

[参考・引用]
[1]ポルシェ傘下VWが新会社 株主一族、統合に合意、2009年5月8日、フジサンケイビジネスi、
http://www.business-i.jp/news/bb-page/news/200905080110a.nwc
[2]独フォルクスワーゲン、ポルシェとの合併協議を中止、2009年5月18日、ロイター、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090518-00000566-reu-bus_all
[3]フェルディナント・ポルシェ、Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A7
[4]ヒストリー、ポルシェホームページ、
http://www.porsche.com/japan/jp/aboutporsche/porschehistory/
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